無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

歴史講座「東平田の歴史文化を語る」

2023-11-13 17:00:44 | 歴史


東平田コミュニティ防災センターで、飽海地域史研究会と東平田郷土史研究会共催による歴史講座「東平田の歴史文化を語る」と題した講座が開催された。
受付かと思って出かけると、地域の方々がすでにスタンバっていらして、何もすることがなかった。



講堂の壁に平成7年と書かれた棟札があった。すると設計を担当したのは6年か。この頃は酒田市も少し裕福で、予算をガンガン落とせとは言われなかった良い時代でもある。


会場には研究会会員よりも、地元の方々の方が多く「自分たちの歴史を知る」ことに積極的だった。


写真は小野寺先生提供のものである。
私は比較的前列に座り、動けなかったのでもある。



進行は東平田郷土史研究会 大井氏による。


主催者挨拶は、東平田コミュニティ振興会会長の佐藤氏による。


小野寺先生の受け持ちは2つの講座で、第1講座は「生石2遺跡 東北芸術工科大学の発掘」だ。
会場のこのコミセンも建設時に遺跡がゴロゴロ発掘されて、調査が加わり工事が1ヶ月以上遅れた記憶がある。


今回の発掘は、芸工大の青野教授の指導で、学生達が1m✕2mの穴を掘っていく。
この遺跡は、時代が2段になっていて、最初は縄文末期から弥生初期にかけて、ここで稲作が行われた証拠の炭化米が発見された。
1985年には、県と市による発掘で、九州福岡の遠賀川(おんががわ)の土器も見つかり、日本海ルートで稲作が広まっていたことと、東北で最も早い地域だったことが分かる。
2018年、青森県津軽でも炭化米7粒が発見され、これが最北と言われている。



生石2遺跡は、とんでもない発掘で、炭化米や遠賀川土器に加え「仁」の文字のある墨書土器も発掘された。
墨書土器は山形県内では91箇所で発掘されている。


土の中から根気よく掘り出し、並べたもの。
掘った場所によっては、地下水が染み出してドロドロの箇所もある。
発掘された土器は形を体してなく、破片で見つかる。それをパズルのようにつなぎ合わせて土器の形に修復する。



第2講座では、「中世の板碑と飽海の社会」と題した歴史講座である。
板碑とは、石に文字を刻んだもの。石碑のようなものである。

飽海では9世紀の800年代の初めから、急激に人が増えだした。
それは尤もな話で、内海だった所が干上がって平地になったからで、山際にしか土地がなく住居跡地や遺跡が見つからないのはその為である。



縄文文化から引き継がれた竪穴住居は山にしかなく、平野部に建てられたのは掘立柱のモダン住居群だった。


出羽国府も蝦夷(えみし)との戦いが激しくなるにつけ、危険だと秋田城から城輪柵跡に移転し、移民も多くなった。出羽国に郡司を於く。
中野目集落には上杉から焼き討ちされるまで、修験者が沢山いた。
八百万の自然信仰から密教を取り入れ、鳥海山大権現や経ヶ蔵(山)天辺の岩でも山伏の修行の場と経典を入れた穴がある。


生石に近い俵田遺跡では祭祀場が置かれ、日々占いなどされていたが、850年鳥海山の噴火と大地震の少し前に、奈良から陰陽師が派遣された。
鳥海の大物忌を鎮めるためだったが、地震は起きた。

古くからの官道に並ぶ遺跡には、塩作りの製塩土器、古墳時代の土師器、夥しい数の古銭も発掘されている。


次にお待ちかね「朝日山城の池田氏」について、小田先生から語って頂いた。
池田氏については、池田家文書を見ていたので、周りの人よりは少し詳しい。
室町時代の末期、壇ノ浦の戦い以後、落ち延びた平家(藤原氏)ゆかりの池田氏兄弟五名は、船で関に着き新川の兼澤から土路沢と云う所に辿り着く。
池田氏が初めて飽海に来た時の様子である。


朝日山城は酒田市生石にあった池田氏の山城で、現在はその形も見えない。
山中にある土塁などが少し残っている程度である。


樹木が生い茂り、山城に向かう道も無くなっている。
昔は、庄内を一望出来た場所だそうだ。



時の勢力図。鶴岡市大山の大宝寺城には武藤氏、酒田市旧平田の砂越城には砂越氏。酒田の東禅寺城はまだ形をなしてない。


朝日山城の本丸。とても急な絶壁もあると云う。


なるほど。


ここには載せていないが、池田氏の家紋は丸に揚羽蝶である。
この家紋を持っている武士が、随分と多い。
姫路城を造った池田輝政の家紋も、このアゲハ蝶だった。
平家の落人と気軽に呼ぶが、尊い身分の人達だから落人になるので、うんと下の最下層の人々なら落ち延びる必要も無いわけで、
静かに余生を暮らすのではなく、力のある豪族になって行くのも判る気がする。


私は参加しなかったが、前回の旧平田町巡りでは、数多くの参加者がいたようだ。


兄弟は散らばり、各地で活躍した。


これはその当時、池田家の子孫が造った水路で、現在も使われている。



たった一文字の親書。


会場の私の隣に座っていたご婦人は、この池田家の末裔で、池田家文書を披露し小田先生に渡してくれた方だった。
写真の方は、その関係者だった。
旧平田並びに生石の方々は、自分たちの地域のうんと身近な歴史に触れ、「もっと知りたい。」「時間が少なすぎる。」と話していた。
機会があれば、第2第3弾も聴いてみたい。



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