無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 観音寺城

2024-07-17 14:08:08 | 歴史
7月14日(日)酒田市八幡総合支所ホールで飽海地域史研究会「観音寺城を観光拠点に」の地域講座が開催された。



いつもの文化センター教室とはエライ違いの大きなホールである。
イス・テーブルをガタガタ並べる。講師の須藤さんと息子さんも手伝ってくれた。





来賓の挨拶


会長挨拶


基調講演の「縄張り図からみた観音寺城」は、山形史学研究会の須藤英之(すとうひでゆき)氏からのお話である。
須藤(すとう)さんとお呼びするのは珍しい。


日本の城を連想するに、天守と石垣と堀は三点セットである。
ただ、これは江戸時代以降の城であり、平安・鎌倉・戦国と続く戦いの為の城で、特に山城ではこのような形をしていない。
観音寺城を含む庄内にに於ける山城は、崖のような斜面、頂上近くの平場は曲輪(くるま)と呼び建築された城が建てられていたこと。
水が流れていずともV字に切り込まれた堀切は、敵方が落ちて容易に這い上がれない場所。
堀切の周りに巡らされた土塁で侵入をふせぎ、山そのものを難攻不落の城にした。
そのような山城が個性豊かに残っている。

須藤さんからは、沢山の史料と共に写真や資料を見せて頂いたが、その様子を写真に撮るのは構わないが、SNS等に載せないようにとの指摘された。
残念だが、これまでである。


小野寺会長からは、研究会の紹介に続き、観音寺城や各地の山寺について講義を行った。





観音寺城主は来次氏(きすぎ)である。
後三年の役(1803)の頃、奥州平泉の藤原清原武則の第7子「時衡」が、羽黒山の山伏来次法林を頼り以後20代に渡り羽黒に住む。
1478年、砂越氏が信濃守となり砂越城へ。武藤氏は砂越抑えの為に東善寺城築城。武藤対砂越で、武藤は大山へ(尾浦城)
1560年代、来次氏房が東禅寺村へ、来次時秀(初代)が観音寺城を作る。


左は平安時代の国府跡(他説あり)城輪柵跡
右は古くから八幡には陰陽師の活躍があった。


観音寺城とは。
全国各地に観音寺城と呼ばれる城あり。大きいのは近江


丸印のついている観音寺城。周辺地図は面白い。



ここからは各地の看板を観てみよう。


城を観光に利用するには適切な看板が必要である。





手作りの可愛い看板も良いが、中高生が歴史を知るために見る看板には、きちんとした歴史が必要だ。


砂越城


新庄城の看板は詳しい。









群馬県の金山城は山城も看板も適切だ。





来次氏は米沢藩とも関わりがあった。
初代の来次時秀は観音寺城主で飛澤神社の神職(官人の供奉役)
二代目来次氏秀は上杉景勝の家臣
三代目来次朝秀は1629年上杉定勝の右筆。奥方は小国城主小国因幡守の娘。





子孫は遊佐や藤崎に多い。
観音寺城を観光に活かすにはを語り終わり、本来は観音寺城跡を散策する予定だったが、時間も予定をオーバーした為、一部の有志が城跡近くの神社へ。

留守番と片付け組は、いずれ城跡を目指すことにした。



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