はせがわクリニック奮闘記

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赤い靴はいてた女の子

2011年11月22日 | 日記


先ほどRKKラジオを聴いていると、野口雨情作詞の”赤い靴”の由来について放送されていました。
面白かったので、赤い靴ウィキペディアを参考にしながら紹介します。

まず、日本の色々な場所に、赤い靴の女の子の像があることの謎から番組はスタートしました。
列記すると、横浜山下公園(写真)、静岡県日本平、東京都麻布十番、北海道留寿都村、北海道小樽市、北海道函館市、青森県鯵々沢町です。

赤い靴をはいた女の子のモデルは、静岡県で1902年7月15日に生まれた”岩崎きみ”だそうです。
きみの母親である”岩崎かよ”は未婚の母でした。
その後、かよは、きみを連れて北海道に渡り鈴木志郎と結婚します。
二人は当時の社会主義運動の一環として平民農場へ入植しました。
しかし、開拓生活の厳しさから、二人は、3歳になったきみを外国人宣教師夫婦に託します。
帰国することになった宣教師夫婦は、きみを連れて行くことになりました。
ところが、その時、きみは結核に罹っており、乗船許可が下りなかったのです。
結局、きみは麻布十番の孤児院に入れられ、そのまま、そこで9歳の時に死亡しました。

しかし、かよは死ぬまでその事実を知ることも無く、きみがアメリカで幸せに暮らしているものと思っていたそうです。

1907年頃、鈴木志郎は札幌新聞社に勤めており、そこで野口雨情と知り合いになり、きみのいきさつを雨情に話しました。
かよも、きみの話を雨情にしたようです。
雨情はその話を基に1921年に赤い靴を発表しました。

ところで、以上のことが明らかになったのはそんなに昔のことではありません。
1973年のことですが、鈴木志郎とかよの間に生まれた三女が、”私の姉は赤い靴の女の子のモデルです。”と新聞社に投稿したことに端を発します。
それに注目した、当時の北海道テレビ記者の菊池寛が5年がかりで、”ドキュメンタリー、赤い靴はいていた女の子”を製作し、
1978年に発表して、やっとブレイクしたようです。

私が小学生の頃は、”ひとさらいの歌”という人もいました。
私自身は、”赤い靴をはいたお人形さんを、ガイジンが買っていった歌”だと説明されていました。