前回アップした、"正直、親切、愉快に生きる " ですが、中村天風という人の言葉だそうです。
正確には、
今日一日を
怒らず、恐れず、悲しまず
正直、親切、愉快に生きる
でした。
内田樹の師匠は中村天風という人の弟子であったそうです。
そこで、内田樹は、自分のことを、中村天風の孫弟子と称することがあるそうです。
今日は中村天風を検索してみました。
ウィキペディアでの肩書は、日本の思想家、実業家、諜報員、日本初のヨーガ行者です。
諜報員ってスパイのことでしょうか?
天風は明治8年生まれですが、父親は旧柳川藩士でした。
6歳より、家伝である随変流という剣術と抜刀術の修行を始めます。
そして、なんと修猷館に入学したのです。
当時の修猷館は授業をオール英語で行っていたのですが、天風は幼少の頃より近所の英国人に接していたおかげで秀才となりました。
また柔道部の主将としても活躍する文武両道の館生でした。
ある年修猷館柔道部は熊本済々廣との対抗戦で圧倒的な勝利を収めます。
ところが惨敗した済々廣は包丁を持って、天風に闇討ちを仕掛けたのです。
天風は返りうちに仕留めるのですが、その際相手を刺殺してしまいました。
正当防衛が認められた天風でしたが、修猷館を退学となってしまいます。
その後、玄洋社の頭山満のもとに預けられますが、天風は、そこで頭角を現していきます。
気性の激しさから、" 玄洋社の豹 " と呼ばれたそうです。
16歳で帝国陸軍のスパイとなり満洲に赴き、大連から遼東半島に潜入し、錦州城、九連城の偵察を行います。
そして26歳で再び満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破します。
さらには青竜刀を手にして襲い掛かってくる馬賊達に仕込み杖で立ち向かい、" 人切り天風 " と呼ばれました。
日露戦争の直前には、コサック兵に囚われて銃殺目前となりますが、辛くも部下に救出されます。
天風は、その後も危険を乗り越えながら目的地である大連に到達します。
この作戦で派遣された帝国陸軍のスパイは113名でしたが、生きて大連に辿り着いたのは僅か9名であったそうです。
日露戦争後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていましたが、肺結核を発症します。
その当時、アメリカのオリソン・マーデンが書いた、" Pushing to The Front " という成功哲学の本が世界中でベストセラーになっていました。
それを読んで感動した天風はアメリカ行きを決断します。
しかし肺結核が原因で渡航許可は下りませんでした。
そこで親交のあった孫文の親戚になりすまして密航します。
アメリカでオリソンに会うことはできましたが、あまり相手にされなかったようです。
そこでコロンビア大学に入学しますが、ここでも英語力が物を言ったのでしょう。
その後、英国、フランス、ドイツと廻り、35歳で帰国の途につきます。
ところが経由地であったアレキサンドリアでインドのヨーガの聖人であるカリアッパ師と出会います。
天風はそのまま弟子入りしてヒマラヤ山麓の村で2年半もヨーガの修行に打ち込みます。
その修行を通じて、天風は肺結核を完治させ、悟りを得ます。
37歳でインドを立ち、日本に帰ろうとした天風でしたが、その途上で孫文の引き起こした第二次辛亥革命に巻き込まれます。
そのまま中華民国最高顧問として孫文に協力しました。
革命は挫折したものの、その謝礼として財を得ます。
帰国後は東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍します。
しかし、44歳の時に突然感じるところがあり、頭山満に相談したうえで、一週間で一切の社会的身分と財産を処分して、" 統一哲医学会 " を創設します。
その後、統一哲医学会は発展し、昭和15年に、" 天風会 " と名称を変え、昭和37年に国の認可により、" 財団法人天風会 " となります。
そして、天風は昭和43年に92歳でこの世を去りました。
まあ、なんというか、すざましい人生ですよね。
このまま映画化できそうなスペクタルストーリーです。
さて中村天風をアマゾンで検索したところ、200件以上もの著書、CD、テープなどがヒットしました。
これほどメジャーな修猷館の先輩を、これまで知らなかったのは不思議です。
ウィキペディアには天風に影響を受けた人物が列記されています。
東郷平八郎、宇野千代、双葉山、尾崎行雄、稲盛和夫、広岡達朗、大佛次郎、堀越二郎、園田直、重宗雄三、松岡修造などです。
松岡修造ですか? 調べてみると松岡修造が1歳の誕生日を迎えた直後に天風は死亡しています。
そこで、" 松岡修造と中村天風 " でグーグル検索をかけたところ、次のような記事がヒットしました。
彼のメンタルを強めるのに一役買ったのは心身統一法を広めた思想家・中村天風だった。
天風に出会ってから、ほぼすべての著書を読み、講演テープも聴いたという。
なかでも強く実践しているのは、" 絶対積極 " というもの。
たとえば、病も気から、痛みも気の持ちようで感じなくなるんじゃないかと思った松岡は、
歯の治療を麻酔なしでやってみたという。
( 週刊現代 2015年2月7日号 )
なんとなく天風先輩の気質が想像できるように思えました。
正確には、
今日一日を
怒らず、恐れず、悲しまず
正直、親切、愉快に生きる
でした。
内田樹の師匠は中村天風という人の弟子であったそうです。
そこで、内田樹は、自分のことを、中村天風の孫弟子と称することがあるそうです。
今日は中村天風を検索してみました。
ウィキペディアでの肩書は、日本の思想家、実業家、諜報員、日本初のヨーガ行者です。
諜報員ってスパイのことでしょうか?
天風は明治8年生まれですが、父親は旧柳川藩士でした。
6歳より、家伝である随変流という剣術と抜刀術の修行を始めます。
そして、なんと修猷館に入学したのです。
当時の修猷館は授業をオール英語で行っていたのですが、天風は幼少の頃より近所の英国人に接していたおかげで秀才となりました。
また柔道部の主将としても活躍する文武両道の館生でした。
ある年修猷館柔道部は熊本済々廣との対抗戦で圧倒的な勝利を収めます。
ところが惨敗した済々廣は包丁を持って、天風に闇討ちを仕掛けたのです。
天風は返りうちに仕留めるのですが、その際相手を刺殺してしまいました。
正当防衛が認められた天風でしたが、修猷館を退学となってしまいます。
その後、玄洋社の頭山満のもとに預けられますが、天風は、そこで頭角を現していきます。
気性の激しさから、" 玄洋社の豹 " と呼ばれたそうです。
16歳で帝国陸軍のスパイとなり満洲に赴き、大連から遼東半島に潜入し、錦州城、九連城の偵察を行います。
そして26歳で再び満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破します。
さらには青竜刀を手にして襲い掛かってくる馬賊達に仕込み杖で立ち向かい、" 人切り天風 " と呼ばれました。
日露戦争の直前には、コサック兵に囚われて銃殺目前となりますが、辛くも部下に救出されます。
天風は、その後も危険を乗り越えながら目的地である大連に到達します。
この作戦で派遣された帝国陸軍のスパイは113名でしたが、生きて大連に辿り着いたのは僅か9名であったそうです。
日露戦争後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていましたが、肺結核を発症します。
その当時、アメリカのオリソン・マーデンが書いた、" Pushing to The Front " という成功哲学の本が世界中でベストセラーになっていました。
それを読んで感動した天風はアメリカ行きを決断します。
しかし肺結核が原因で渡航許可は下りませんでした。
そこで親交のあった孫文の親戚になりすまして密航します。
アメリカでオリソンに会うことはできましたが、あまり相手にされなかったようです。
そこでコロンビア大学に入学しますが、ここでも英語力が物を言ったのでしょう。
その後、英国、フランス、ドイツと廻り、35歳で帰国の途につきます。
ところが経由地であったアレキサンドリアでインドのヨーガの聖人であるカリアッパ師と出会います。
天風はそのまま弟子入りしてヒマラヤ山麓の村で2年半もヨーガの修行に打ち込みます。
その修行を通じて、天風は肺結核を完治させ、悟りを得ます。
37歳でインドを立ち、日本に帰ろうとした天風でしたが、その途上で孫文の引き起こした第二次辛亥革命に巻き込まれます。
そのまま中華民国最高顧問として孫文に協力しました。
革命は挫折したものの、その謝礼として財を得ます。
帰国後は東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍します。
しかし、44歳の時に突然感じるところがあり、頭山満に相談したうえで、一週間で一切の社会的身分と財産を処分して、" 統一哲医学会 " を創設します。
その後、統一哲医学会は発展し、昭和15年に、" 天風会 " と名称を変え、昭和37年に国の認可により、" 財団法人天風会 " となります。
そして、天風は昭和43年に92歳でこの世を去りました。
まあ、なんというか、すざましい人生ですよね。
このまま映画化できそうなスペクタルストーリーです。
さて中村天風をアマゾンで検索したところ、200件以上もの著書、CD、テープなどがヒットしました。
これほどメジャーな修猷館の先輩を、これまで知らなかったのは不思議です。
ウィキペディアには天風に影響を受けた人物が列記されています。
東郷平八郎、宇野千代、双葉山、尾崎行雄、稲盛和夫、広岡達朗、大佛次郎、堀越二郎、園田直、重宗雄三、松岡修造などです。
松岡修造ですか? 調べてみると松岡修造が1歳の誕生日を迎えた直後に天風は死亡しています。
そこで、" 松岡修造と中村天風 " でグーグル検索をかけたところ、次のような記事がヒットしました。
彼のメンタルを強めるのに一役買ったのは心身統一法を広めた思想家・中村天風だった。
天風に出会ってから、ほぼすべての著書を読み、講演テープも聴いたという。
なかでも強く実践しているのは、" 絶対積極 " というもの。
たとえば、病も気から、痛みも気の持ちようで感じなくなるんじゃないかと思った松岡は、
歯の治療を麻酔なしでやってみたという。
( 週刊現代 2015年2月7日号 )
なんとなく天風先輩の気質が想像できるように思えました。
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