私は高校2年の春に初めてパチンコに行きました。
同級生に無理矢理連れて行かれたのですが、ビギナーズラックで500円ほど勝ちました。
以後、チョクチョクとパチンコ屋に出入りするようになりました。
振り返れば修猷館高校は煙草以外はすべてフリーパスというユルイ指導体制でした。
パチンコ屋や雀荘で教師と一緒になっても、おとがめは無く、普通に挨拶して遊んでいました。
当時は椅子もなく、立ち打ちで、左手で一個ずつ球を穴に放り込んで、右手ではじくという仕様でした。
勝ち負けは釘を読む能力と、素早く連射できる器用さで決まりました。
私はすぐに、”乱れ打ちのハセガワ”という異名をとり、釘を読む能力も短期間の内にレベルアップさせていきました。
現在でもそうですが、パチンコ屋の釘は毎日変わるわけではありません。
1/3から1/4の台しか変わらないのです。
したがって、前日によく球が出た台は、次の日も出る確率が高いのです。
夏休みに補修をサボッて、私は連日のように中洲のパチンコ屋へ通いました。
そして、よく出た台(終了台)の番号をこっそりとメモし始めました。
この頃から、パチンコは私にとって、ギャンブルでは無く、仕事のような感覚になってしまいました。
朝イチで入店して、前日終了させた台の釘が変わってないことを確認すると、キョロキョロとまわりを見回しながら打ち続けます。
前日、終了させるのに2時間かかったならば、今日も、それくらいで終了させられるはずだから、
その次に打ちたい台をキョロキョロと注目していたのです。
同級生が力仕事(ドカタ仕事)で丸一日こき使われて1800円しかゲット出来ない時代に、
私は2時間のパチンコで1600円ほど稼いでいたのです。
20歳の時ですが、私は初めて入ったパチンコ屋で、釘を読みながら、出そうな台を探していきました。
そして、ついに一台も見つけることができずに、その店を後にしたのです。
打ちたい台が無いならば打たないというプロ意識のようなものが芽生えていました。
やがて時代は進み、”セブン”というパチンコ台が登場しました。
台の真ん中に、スロットマシンのようなドラムがあって、777が揃って、上のデジタル表示の数字も7になると大当たりが完成するという仕様でした。
いまでこそ様々な攻略本が売られていますが、当時は皆無でした。
私は、まず3つのドラムの展開図を作成しました。
そして、一回の回転で第二ドラムと第三ドラムが2個ずつずれていくことを発見しました。
第一ドラムには3つの7が描かれていますがその上の図柄がすべて違うので区別がつきます。
次の回転で、表か裏の方でかは分かりませんが7が3つ揃うような状態(テンパッテいる状態)は8.5回に一回あることもつきとめました。
そして、その時に、第一ドラムの3つの7のうちの、どれを正面で止めれば7が揃うのかもつきとめました。
朝10時にパチンコ屋に入ります。
100円分だけ球を買います。
8台か9台のうちに1台ある、”テンパッテいる台”を探します。
1回だけ回して目標の7が正面に来るようにストップボタンを押します。
目標の7が画面の下に消えたタイミングでボタンを操作するのがコツでした。
うまく第一ドラムに目標の7を止められた瞬間に7が3つならぶことが約束されます。
上部のデジタルは操作できませんが半分近くは7が出ます。
場内放送で10時1分に、”123番台スタート”の声を聞くことも珍しくはありませんでした。
一度大当たりが出ると、連チャンが来ることがかなり期待できるようなプログラミングでしたから、しばらくは何もせずにただ回すだけでOKでした。
ドル箱(大箱)は足下に5個重ねるのが限界でしたので、球売り場のそばに、私専用の玉置場できました。
上通りにあった、”巨人会館”というパチンコ屋でしたが、常連さんたちとも仲良しになりました。
しかし、私はメカニズムの秘密を決して口外しませんでした。
気のいいおじさんとも仲良しになりましたが、彼は一年足らずで退職金の600万円を使い果たして姿を消しました。
稼いだ金は飲んでも遊んでも無くなりません。
スーツや靴を買い、バイクを買い、県外にアベック旅行を楽しむという贅沢な学生生活でした。
(次回に続く)
同級生に無理矢理連れて行かれたのですが、ビギナーズラックで500円ほど勝ちました。
以後、チョクチョクとパチンコ屋に出入りするようになりました。
振り返れば修猷館高校は煙草以外はすべてフリーパスというユルイ指導体制でした。
パチンコ屋や雀荘で教師と一緒になっても、おとがめは無く、普通に挨拶して遊んでいました。
当時は椅子もなく、立ち打ちで、左手で一個ずつ球を穴に放り込んで、右手ではじくという仕様でした。
勝ち負けは釘を読む能力と、素早く連射できる器用さで決まりました。
私はすぐに、”乱れ打ちのハセガワ”という異名をとり、釘を読む能力も短期間の内にレベルアップさせていきました。
現在でもそうですが、パチンコ屋の釘は毎日変わるわけではありません。
1/3から1/4の台しか変わらないのです。
したがって、前日によく球が出た台は、次の日も出る確率が高いのです。
夏休みに補修をサボッて、私は連日のように中洲のパチンコ屋へ通いました。
そして、よく出た台(終了台)の番号をこっそりとメモし始めました。
この頃から、パチンコは私にとって、ギャンブルでは無く、仕事のような感覚になってしまいました。
朝イチで入店して、前日終了させた台の釘が変わってないことを確認すると、キョロキョロとまわりを見回しながら打ち続けます。
前日、終了させるのに2時間かかったならば、今日も、それくらいで終了させられるはずだから、
その次に打ちたい台をキョロキョロと注目していたのです。
同級生が力仕事(ドカタ仕事)で丸一日こき使われて1800円しかゲット出来ない時代に、
私は2時間のパチンコで1600円ほど稼いでいたのです。
20歳の時ですが、私は初めて入ったパチンコ屋で、釘を読みながら、出そうな台を探していきました。
そして、ついに一台も見つけることができずに、その店を後にしたのです。
打ちたい台が無いならば打たないというプロ意識のようなものが芽生えていました。
やがて時代は進み、”セブン”というパチンコ台が登場しました。
台の真ん中に、スロットマシンのようなドラムがあって、777が揃って、上のデジタル表示の数字も7になると大当たりが完成するという仕様でした。
いまでこそ様々な攻略本が売られていますが、当時は皆無でした。
私は、まず3つのドラムの展開図を作成しました。
そして、一回の回転で第二ドラムと第三ドラムが2個ずつずれていくことを発見しました。
第一ドラムには3つの7が描かれていますがその上の図柄がすべて違うので区別がつきます。
次の回転で、表か裏の方でかは分かりませんが7が3つ揃うような状態(テンパッテいる状態)は8.5回に一回あることもつきとめました。
そして、その時に、第一ドラムの3つの7のうちの、どれを正面で止めれば7が揃うのかもつきとめました。
朝10時にパチンコ屋に入ります。
100円分だけ球を買います。
8台か9台のうちに1台ある、”テンパッテいる台”を探します。
1回だけ回して目標の7が正面に来るようにストップボタンを押します。
目標の7が画面の下に消えたタイミングでボタンを操作するのがコツでした。
うまく第一ドラムに目標の7を止められた瞬間に7が3つならぶことが約束されます。
上部のデジタルは操作できませんが半分近くは7が出ます。
場内放送で10時1分に、”123番台スタート”の声を聞くことも珍しくはありませんでした。
一度大当たりが出ると、連チャンが来ることがかなり期待できるようなプログラミングでしたから、しばらくは何もせずにただ回すだけでOKでした。
ドル箱(大箱)は足下に5個重ねるのが限界でしたので、球売り場のそばに、私専用の玉置場できました。
上通りにあった、”巨人会館”というパチンコ屋でしたが、常連さんたちとも仲良しになりました。
しかし、私はメカニズムの秘密を決して口外しませんでした。
気のいいおじさんとも仲良しになりましたが、彼は一年足らずで退職金の600万円を使い果たして姿を消しました。
稼いだ金は飲んでも遊んでも無くなりません。
スーツや靴を買い、バイクを買い、県外にアベック旅行を楽しむという贅沢な学生生活でした。
(次回に続く)
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