今朝、毎月一回、薬をもらいに来られる常連の患者さんが私に質問をしてきました。
" 先生は百道中学校卒業ではないですか? " と。
驚いて、そうですと答えると、" 私も百道中学校、修猷館卒業です。 " と言われました。
どうして分かったのかを尋ねると、私のブログを読まれたそうなのです。
私の7学年後輩でした。
砂浜に作られた運動場や百道浜の話題で盛り上がりました。
私は熊本市の白山小学校を卒業し、熊本市立出水中学校に入学しました。
当時の出水中学校はマンモス校で私たちの学年は16組までありました。
上の学年にいたっては20数組までありましたので、学校内の運動場では運動会ができません。
水前寺の陸上競技場を貸し切って開催されていました。
進学校としても名高く、頻繁に実力テストが繰り返され、上位50名の名前は廊下に張り出されていました。
私の成績はと言えばトップ10には入れないけど20位は出ないというものでしたが、
母数が800名を越えていますのでまずまずだったと思います。
そして冬休み明けの3学期から博多に引っ越して百道中学校に通い始めたのです。
引っ越し場所を決めた母親も私も、修猷館高校など聞いたこともなく、百道中学校が進学校であることも知りませんでした。
全くの偶然で、修猷館の校区内にある百道中学校に転校したのです。
知らないものですから、当初は、私語だらけのざわざわとした授業に驚き、
" とんでもなくレベルの低い、海辺の田舎中学校に来てしまった。 " と思いました。
そして初めての実力テストを受けました。
一学年は10組までしか無いし、このレベルならベスト10に入ったかもと思いました。
ところが、結果は51番だったのです。
ぶったまげました。
その後、次第に分かってきたのですが、当時の福岡市には学区制があって、修猷館校区、福岡高校区、筑紫丘校区の3つに分けられていました。
しかし、自分の子供をなんとしても修猷館に入学させたい親達は、こぞって百道中学校に越境入学をさせるという手段を実行していたのです。
私の同級生にも、香椎や二日市から一時間以上もかけて通学して来る者がおりました。
私も英語の塾に通うなどして20番以内に復活し、卒業間際にはベスト10に入っていました。
私の時代の百道中学校の授業は体罰授業でした。
現在では考えられないでしょうが、冗談みたいに体罰が繰り返されていました。
例えば、教師が教科書を読み聞かせるのですが、途中でいきなり読みやめて、" 長谷川、続きを読め! " とくるのです。
私が、" 酸化したときに.... " と続けると、" 俺は酸までは読んでいた。化から読むのが正解だ。前に出てこい。 " となって竹のムチで打たれるのです。
そう言えば、" 富士山 " という体罰もありました。
教壇でみんなの方を向いて正座させられます。
教師は後ろに立って、" 富士山を見せてやる! "と宣言します。
そして私の両側のモミアゲを指でつまんで上に引っ張るのです。
痛さのせいで立ち上がっていくのですが、教師は、" 富士山は見えたか? " と質問し続けます。
オチには2通りあって、途中で、" 見えました " と言うと、" 嘘つくな! " と怒鳴られて頭にげんこつです。
へっぴり腰になるくらいまで我慢したならば、" よしっ、帰れ! " と尻に膝蹴りが来ます。
現代ならばテレビニュースになるかも知れませんよね。
さて、百道中学校の私の学年は歴史的な最優秀学年でした。
修猷館を96名が受験して93名が合格したのです。
付属中学校が常にナンバーワンだったのですが、初めて私たちが彼らを上回ったのです。
後にも先にも私たちの学年だけが達成した記録です。
" 先生は百道中学校卒業ではないですか? " と。
驚いて、そうですと答えると、" 私も百道中学校、修猷館卒業です。 " と言われました。
どうして分かったのかを尋ねると、私のブログを読まれたそうなのです。
私の7学年後輩でした。
砂浜に作られた運動場や百道浜の話題で盛り上がりました。
私は熊本市の白山小学校を卒業し、熊本市立出水中学校に入学しました。
当時の出水中学校はマンモス校で私たちの学年は16組までありました。
上の学年にいたっては20数組までありましたので、学校内の運動場では運動会ができません。
水前寺の陸上競技場を貸し切って開催されていました。
進学校としても名高く、頻繁に実力テストが繰り返され、上位50名の名前は廊下に張り出されていました。
私の成績はと言えばトップ10には入れないけど20位は出ないというものでしたが、
母数が800名を越えていますのでまずまずだったと思います。
そして冬休み明けの3学期から博多に引っ越して百道中学校に通い始めたのです。
引っ越し場所を決めた母親も私も、修猷館高校など聞いたこともなく、百道中学校が進学校であることも知りませんでした。
全くの偶然で、修猷館の校区内にある百道中学校に転校したのです。
知らないものですから、当初は、私語だらけのざわざわとした授業に驚き、
" とんでもなくレベルの低い、海辺の田舎中学校に来てしまった。 " と思いました。
そして初めての実力テストを受けました。
一学年は10組までしか無いし、このレベルならベスト10に入ったかもと思いました。
ところが、結果は51番だったのです。
ぶったまげました。
その後、次第に分かってきたのですが、当時の福岡市には学区制があって、修猷館校区、福岡高校区、筑紫丘校区の3つに分けられていました。
しかし、自分の子供をなんとしても修猷館に入学させたい親達は、こぞって百道中学校に越境入学をさせるという手段を実行していたのです。
私の同級生にも、香椎や二日市から一時間以上もかけて通学して来る者がおりました。
私も英語の塾に通うなどして20番以内に復活し、卒業間際にはベスト10に入っていました。
私の時代の百道中学校の授業は体罰授業でした。
現在では考えられないでしょうが、冗談みたいに体罰が繰り返されていました。
例えば、教師が教科書を読み聞かせるのですが、途中でいきなり読みやめて、" 長谷川、続きを読め! " とくるのです。
私が、" 酸化したときに.... " と続けると、" 俺は酸までは読んでいた。化から読むのが正解だ。前に出てこい。 " となって竹のムチで打たれるのです。
そう言えば、" 富士山 " という体罰もありました。
教壇でみんなの方を向いて正座させられます。
教師は後ろに立って、" 富士山を見せてやる! "と宣言します。
そして私の両側のモミアゲを指でつまんで上に引っ張るのです。
痛さのせいで立ち上がっていくのですが、教師は、" 富士山は見えたか? " と質問し続けます。
オチには2通りあって、途中で、" 見えました " と言うと、" 嘘つくな! " と怒鳴られて頭にげんこつです。
へっぴり腰になるくらいまで我慢したならば、" よしっ、帰れ! " と尻に膝蹴りが来ます。
現代ならばテレビニュースになるかも知れませんよね。
さて、百道中学校の私の学年は歴史的な最優秀学年でした。
修猷館を96名が受験して93名が合格したのです。
付属中学校が常にナンバーワンだったのですが、初めて私たちが彼らを上回ったのです。
後にも先にも私たちの学年だけが達成した記録です。
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