前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

鴻池朋子展 ~インタートラベラー 神話と遊ぶ人~

2009-09-21 17:24:57 | 美術関係
東京オペラシティアートギャラリーで
鴻池朋子展『インタートラベラー 神話と遊ぶ人』
を観てきました。






六本脚の狼は生き物が死に絶えていく
氷河期を象徴しているのでしょうか。


   人の脚が生えた昆虫は生命溢れる
   温暖期を象徴しているのでしょうか。


 地球の真ん中には巨大な赤ん坊の頭があるという
 神話が信じられている世界に
 我々は生きているのでしょうか。


「みみお」は作者の狂気を中和させるために
必然的に生み出されたものなのでしょうか。


 剣は時間の流れでしょうか。
 それとも生命の源でしょうか。


「みみお」は私でしょうか。
かつて私も同じことを経験したのでしょうか。
だから懐かしく悲しいのでしょうか。


  狼の毛皮が吊るされているのは
  そこに人間がいることを暗示しているのでしょうか。


作者は一体、何を「視た」のでしょうか。






暫く胸のざわめきが治まりませんでした。




みみお

ハイドン先生とモーツァルト おわり

2009-09-20 13:40:01 | クラシック音楽
モーツァルトの最後の交響曲第41番が
作曲されたのは1788年のことです。
そしてその3年後にはこの世を去りました。


ハイドン先生が自身最後の交響曲第104番を
完成させたのが1795年です。

それまでにモーツァルトの交響曲第41番に
接する機会があったのでしょうか。


自分を超えて遥かな高みへと駆け上がり
そして天に召されていった、
友であり「弟子」の最後の交響曲。

それに接した、友であり「師」は
今度は自分が「弟子」に追いつこうと
創作意欲を燃え上がらせたのではないでしょうか。

ただし「弟子」の模倣ではなく
あくまでも自分流のやり方で。


史実についてはよくわかりません。
でも交響曲第104番を聴いていると
私にはそんな風に思えるのです。


ある作曲家の作品について専門家が
「これには○○の影響がみられる」
などと指摘していても
素人の耳ではなかなか解りません。

でもこの先、モーツァルトの
弦楽四重奏曲や交響曲を聴いたとき、
そこにハイドン先生の面影や後姿を
感じ取ることができたら
なんと素晴らしいことでしょう。


天国で再会した二人はどんな会話を
交わしたのでしょうね。


ハイドン先生とモーツァルト つづき

2009-09-19 12:28:11 | クラシック音楽
モーツァルトの交響曲第41番ハ長調『ジュピター』


大変おこがましい言い方かもしれませんが、
この曲は単にモーツァルトの天才の煌きというだけでなく
「人類の英知の結晶」ともいうべき作品だと思います。

きっと作曲家や指揮者、演奏家の方々は、
私のような素人よりも遥かに
この曲の凄さを体感していることでしょう。
とても羨ましく思います。

それでも(私のようなものでも)
『ジュピター』の第4楽章を聴くたびにいつも
(たとえそれが通勤中の電車の中であっても)
人類の英知に触れた感動を受けます。

私にとっては「名曲」「傑作」という以上のものです。


ハイドン先生はモーツァルトを次のように評しています。

 「100年後の世界でもこれほどの才能が出現することはありません」
 (井上太郎さん『ハイドン106の交響曲を聴く』より)

モーツァルトが時代を超越した天才であることを
見抜いていたのでしょう。


「天才」というと、何もない地平に
突然舞い降りてきて全く新しいものを作り出す、
という感じがありますが、実はそうではありません。


能動的に学んだ知識や収集した情報だけでなく
ほんの一瞬視界を横切った映像や何気なく耳にした言葉など
特別意識していなくても五感が捉えたものは
全て脳の中に蓄積されていきます。

きちんと本棚に整理されているものもあれば
ごちゃごちゃと物置に押し込んだものもあるでしょう。
それらを全部部屋にぶちまけて、
今まで誰も思いつかなかったもの同士を組み合わせて
全く新しいものを創り出す・・・。

その能力がずば抜けて優れている人を「天才」と呼ぶのだと思います。

でも、もともと本棚や物置が空っぽだったら、
どんなに才能があっても何も産み出せません。


若く輝ける才能を見抜いた、お手本となる先達がいて、
その偉大な先達の技術を貪欲に吸収し超えようと努力した結果、
「天才」は大きく花開いたのではないでしょうか。