
癌告知されぬまま
死が近いことも知らずにいる
大沼滋治のことを考える
彼の死を考えるとき
残された生を考えてしまう
残された生を
どうしたいのか
それは滋治のことだけでなく
自分のことでもある
自分が癌であること
それも全身癌の状態にありながらも
知らずにいる
全身癌であることを
知らないほうが幸せ・・・・
そうではない
仙骨部に褥瘡ができても
痛みを感じないほど
激痛は全身を駆け抜け
耐えている様は見ているだけでも切なく辛い
他人の痛みは三年でも我慢できる
自分の痛みは三分でも我慢できない
滋治自身(患者自身)の言葉を聞かぬまま
全身の痛みを放置したまま「死」を待つだけなのか
「死」はいつも、自分自身が生きるか死ぬかという
瀬戸際に追い詰められるまで、常に他人事だ。
堀川惠子『教誨師』講談社文庫 49ページより引用