老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

介護とは ⑧{臥床状態になっても、“食べる”ことが楽しみ(その1)}

2020-06-15 03:29:46 | 介護の深淵
トトロの風景


1565 介護とは ⑧{臥床状態になっても、“食べる”ことが楽しみ(その1)}

~人間、最後まで残っている食べる力~

人間は、老いると殊更「食べる」ことが“楽しみ”であり、美味しいな~、と思うとき至福を味わう。

「今日が、あなたの最後の晩餐です」、と告げられたとき、最後にあなたは何を食べたいですか・・・。

小説『レ・ミゼラブル』の主人公 ジャン・バルジャンは、
飢えて死にそうだった妹の子供のためにパンを盗んだ。
その罪のための禁固は5年、そして何度も脱獄を繰り返したためその分追加禁固刑となり、合計19年の囚人生活を送った。
生きるためのパンであった。

介護施設で暮らしている老人やデイサービスに通っている老人は、食べることを楽しみにしている。
人間だけでなく犬や猫も同様、「食事」は楽しみのひと時である。

私たちは、食べる、排せつ、着脱、入浴、歩行などの日常生活行為は、
当たり前にできており、そのことで悩んだりするようなことはない。


脳卒中(脳血管障害後遺症)などを患い手足が思うように動かすことができなくなったとき、
いままで「できていた」日常生活行為が「できなくなり」、
他者(家族)の世話を受けなければならなくなる。

要介護5になると寝返りも困難になり、起き上がりも介助を要し、
日常生活行為も全般にわたり「全介助」の状態だと思い込んでしまう。

要介護5であっても「座ること」ができれば、
世界は大きく変わる
(なぜ世界が大きく変わるのかは、後日書いていきたい)。

要介護5は何もできない寝たきりの人と思い込んでしまう。
排せつも着替えも入浴も移動も全介助にあっても
多くの老人は、「自分の口で食べる」力(能力)を持っている。
老衰が進み、体力、筋力が落ち、ベッドに寄り掛かることもできない状態になったときは、食事は全介助になってしまう。

介護用品の食器や箸、スプーン・フォーク、滑り止めマットなどを使うことで、
不自由な手であっても、自分の手を動かし食べることができる。
その老人にとって、自分で食べれるようになると、食事は楽しみになり生きがいにもつながっていく。

人間、寝たきりになっても自分で口を動かすことができれば、
自分の意思で、自分の口で、食べることができる。
その人にとり最後に残された唯一の生きる力(能力、機能)である。


それを介護者が食事全介助されてしまうと、
その老人は本当に「何にもできない」人になってしまう。
食事は最後の残された「できる」能力であり、その能力を活かしてもらいたい。

日に3回の食事。月にすると90回、1年間では10,950回にもなり、
全介助で食べさせてもらった要介護老人と自分の力で食べた要介護老人とでは
意欲、眼の輝きが違ってくる。

食べさせてもらうのと自分で食べるのとでは食の味や楽しみも格段に違う。
どちらが食べた気がするか、一度誰かに食べさせてもらうとその違いが実感できる。

ひとり要介護老人は、何ができ、何ができない のかを見極め、
過剰な介護は行わず、「できる」ことはやっていただく(特に介護従事者に求められる)。