1573 介護とは ⑫{食べることの意味}
(1)
人間だけでなく、犬も猫も豚も食べなければ飢え死にしてしまう。
食べる物が何も無いと、心はさもしく躰は寒く、頭もボォ~としてくる。
長男夫婦はどちらも教師でありながら
要介護3の老母の介護を怠り、放任行為を亡くなるまで続いた。
老母は食べる物がなく、ふらつき歩き冷蔵庫の前に立つ。
冷蔵庫のドアを開け、冷凍の松坂牛を手にとり食べる。
食べる物が何も無いときは、猫キャットフード(猫缶)やチャオ ちゅ~るを食べていた。
老母も定年まで教師を勤めたので
共済年金額は十分にあっても
長男が管理されているため老母は無一文にあった。
食事に飢えていた老母は
デイサービスの昼食のとき
口のなかにご飯やおかずがまだ口のなかにあるのに
おかずを掻き込み入れるため
咳込みゲホゲホし、口から吐き出してしまう。
この老母に限らず、自宅で十分な食事が摂れていない老人は
慢性的に飢え、目の前に食べ物があると
食べ物を自分の前に寄せ、貪るように食べる。
食べ物に飢えている老人や子どもは、
家族の愛情にも飢えている。
(2)
老いてくるほど いちにちのなかで
食べることが唯一の楽しみとなってくる。
好きな食べ物、お袋の味、旬の物など
美味しい物を味わっているときは
ほんとうに幸せ気持ちになる。
美味しい物は、ひとりで食べたのでは美味しくなく
みんな(家族や気心知れた人)と食べるから美味しい。
「美味しかった」「また食べたい」、とそう言葉を交わしながら
明日も頑張ろう、と生きる力がでてくる。
末期癌や老衰が進み、治療よりも在宅生活ということで退院されるとき
医師から「好きな物を食べさせてください」、と言われる。
もうそのときは、そんなに好きな物を食べることができなくなる。
老いを嵩ねてゆくけれども 元気なときにこそ
美味しい物や好きな物を食べ歩いたり、また作ったりして
楽しむことである。
仏となり、仏壇に好きな物や旬の物を
お供えとしてあげて頂くのは嬉しいのだが
口にすることはできない。
生きているうちに食べさせることが
親孝行なのかもしれない。
自分は親不孝の類で、生きているうちに
もっと外へ連れ出したり好きな物をを食べさせたかった、と
後悔と反省をしている。
(3)
食べることは生きること
食べることは呼吸をすること
老人は食べないと
老人は栄養不足すると
人間らしい顔の表情はなく 肌つやも悪い
足どりも悪く、最悪の場合はひとりで歩けなくなり、動作も鈍い
言葉も失せ、反応も鈍い
坂道を転げるように認知症も進む
当然、水分も不足しており、夜間せん妄になることもある
ひとにより食べるのが遅く、60分もかかる
老人は食べることが「仕事」のひとつだと思い、60分かかっても食べることが大切。
ベッドから車いす、車いすを食卓まで移動し、車いすから食卓の椅子へ移乗させる。
老老介護介護の場合、食卓まで連れていきさらに椅子に乗り移すことなんてできない。
本当にそう思う。
そのときはヘルパーやデイサービスを利用し、椅子で食べるようにする。
介護サービスに使えるお金は、いくらまで可能なのか。
そのことをケアマネジャーに伝えることにより、ケアプランを作成していくときに助かる。
要介護5であっても車いすに座ることができれば
食卓の椅子で食事を摂ることができる。
ベッドでひとりで食べるよりは
家族がいる食卓で食べる方が、楽しいし、美味しく感じるし、食欲もでる。
1日1食(昼食か夕食)でもいいから、椅子に座って食べる。
デイサービスでは移動介助のプロがいるのだから
車いすではなく椅子に座らせ食事を摂っていただくのが、介護サービスである。
口も手も足も使わなければ機能低下し、動かなくなってしまう(廃用症候群)。
老人が最後に残る機能は、自分の口で食べる。あるいは自分の手を使い自分の口で食べる。
自分の力で食べるのと介護員から介助により食べるのとでは
味わいや美味しさが違う。
寝たきりになっても、自分の口で食べ味わいたいものである。
食べることは生きること
食べることは呼吸をすること
(1)
人間だけでなく、犬も猫も豚も食べなければ飢え死にしてしまう。
食べる物が何も無いと、心はさもしく躰は寒く、頭もボォ~としてくる。
長男夫婦はどちらも教師でありながら
要介護3の老母の介護を怠り、放任行為を亡くなるまで続いた。
老母は食べる物がなく、ふらつき歩き冷蔵庫の前に立つ。
冷蔵庫のドアを開け、冷凍の松坂牛を手にとり食べる。
食べる物が何も無いときは、猫キャットフード(猫缶)やチャオ ちゅ~るを食べていた。
老母も定年まで教師を勤めたので
共済年金額は十分にあっても
長男が管理されているため老母は無一文にあった。
食事に飢えていた老母は
デイサービスの昼食のとき
口のなかにご飯やおかずがまだ口のなかにあるのに
おかずを掻き込み入れるため
咳込みゲホゲホし、口から吐き出してしまう。
この老母に限らず、自宅で十分な食事が摂れていない老人は
慢性的に飢え、目の前に食べ物があると
食べ物を自分の前に寄せ、貪るように食べる。
食べ物に飢えている老人や子どもは、
家族の愛情にも飢えている。
(2)
老いてくるほど いちにちのなかで
食べることが唯一の楽しみとなってくる。
好きな食べ物、お袋の味、旬の物など
美味しい物を味わっているときは
ほんとうに幸せ気持ちになる。
美味しい物は、ひとりで食べたのでは美味しくなく
みんな(家族や気心知れた人)と食べるから美味しい。
「美味しかった」「また食べたい」、とそう言葉を交わしながら
明日も頑張ろう、と生きる力がでてくる。
末期癌や老衰が進み、治療よりも在宅生活ということで退院されるとき
医師から「好きな物を食べさせてください」、と言われる。
もうそのときは、そんなに好きな物を食べることができなくなる。
老いを嵩ねてゆくけれども 元気なときにこそ
美味しい物や好きな物を食べ歩いたり、また作ったりして
楽しむことである。
仏となり、仏壇に好きな物や旬の物を
お供えとしてあげて頂くのは嬉しいのだが
口にすることはできない。
生きているうちに食べさせることが
親孝行なのかもしれない。
自分は親不孝の類で、生きているうちに
もっと外へ連れ出したり好きな物をを食べさせたかった、と
後悔と反省をしている。
(3)
食べることは生きること
食べることは呼吸をすること
老人は食べないと
老人は栄養不足すると
人間らしい顔の表情はなく 肌つやも悪い
足どりも悪く、最悪の場合はひとりで歩けなくなり、動作も鈍い
言葉も失せ、反応も鈍い
坂道を転げるように認知症も進む
当然、水分も不足しており、夜間せん妄になることもある
ひとにより食べるのが遅く、60分もかかる
老人は食べることが「仕事」のひとつだと思い、60分かかっても食べることが大切。
ベッドから車いす、車いすを食卓まで移動し、車いすから食卓の椅子へ移乗させる。
老老介護介護の場合、食卓まで連れていきさらに椅子に乗り移すことなんてできない。
本当にそう思う。
そのときはヘルパーやデイサービスを利用し、椅子で食べるようにする。
介護サービスに使えるお金は、いくらまで可能なのか。
そのことをケアマネジャーに伝えることにより、ケアプランを作成していくときに助かる。
要介護5であっても車いすに座ることができれば
食卓の椅子で食事を摂ることができる。
ベッドでひとりで食べるよりは
家族がいる食卓で食べる方が、楽しいし、美味しく感じるし、食欲もでる。
1日1食(昼食か夕食)でもいいから、椅子に座って食べる。
デイサービスでは移動介助のプロがいるのだから
車いすではなく椅子に座らせ食事を摂っていただくのが、介護サービスである。
口も手も足も使わなければ機能低下し、動かなくなってしまう(廃用症候群)。
老人が最後に残る機能は、自分の口で食べる。あるいは自分の手を使い自分の口で食べる。
自分の力で食べるのと介護員から介助により食べるのとでは
味わいや美味しさが違う。
寝たきりになっても、自分の口で食べ味わいたいものである。
食べることは生きること
食べることは呼吸をすること