老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

(続き) 病気自慢

2024-01-06 16:12:35 | 阿呆者
1997 不幸比べ


右端に富士山が写っている。冬は関東平野から富士山が見える

昨日はスマホの画面で入力していたので、時間がかかり途中でやめてしまった。

齢42歳に原因不明の慢性腎不全症になり、人工透析をしたのは53歳。
56歳のとき腎臓移植をした。
慢性腎不全症はいまなお「健在」であり、いまは血栓症も患い、既往歴も含め13を数える。
自分も病気自慢の一老人になったのか・・・・、と他人にそう映ってみえる。

病院、医院(クリニック)、デイサービスに通う老人たちは入れ歯が落ちないか、と心配するほど大きな声ではなしている。
「死にたいよ」「早く迎えにこないかな」、と囁きながらも通院をされている。
「脚が痛い」「肩が痛い」、と医師に訴え、湿布薬を頂く。
「肩は痛く」ても手は上がる。
杖使用のはずだが、杖なしで歩いている。

本当に「痛い」ところは心なのかも知れない。
言葉で「痛み」を口にすることで、子どもたちや介護職から、自分の方に振り向いてもらいたい。
「(わたしは)ここに生きているよ」、とわかって欲しいのかもしれない。

「早く死にたい」、それは家族の一員として「居たい」、という気持ちが老人のなかに燻っている。
「痛い」は住み慣れた家の「居間」に「居たい」のだ。