老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

介護とは ⑩{好きな物を食べたい}

2020-06-17 10:40:56 | 介護の深淵
1568 介護とは ⑩{好きな物を食べたい}

私が初めて角川博志さん(79歳)に会ったのはS病院病室で、そのときの彼はとても痩せておられました。
咳や痰が多くあらわれたことから受診した結果、誤嚥性肺炎であることがわかり、
その年の夏が過ぎた頃に入院となったのです。

彼はそれ以外にも、左腎臓癌のため摘出(片腎)・腎不全・高血圧・C型肝炎・甲状腺機能亢進症・前立腺肥大・脳出血後遺症・胃癌(胃2/3摘出)・逆流性食道炎といったように多くの疾病を抱えていたのです。
全身にわたり筋力低下がみられるため、立つことすら困難な状態にありました。
両手指が反り返り、指の関節は曲がらないため物を持つのにも支障が出ていますが、
右手の親指と人差し指が向かい合い簡単なものをつまむことはでき、
スプーン、フォークを使うことができました。

霜月10日、博志さんは50日余りの入院生活にピリオドを打ち退院となったのでした。
家に帰るに当たり彼の望みは二つあり、
一つは「排泄はトイレでしたい」、他の一つは「飲込みが悪く、むせてしまうので“いま一番食べることが悩み」です。

言語療法士からは、「水分は誤嚥しやすいのでトロミをつけるとよいですよ。美味しいトロミをみつけること、トロミを入れ過ぎないこと、液状のトロミもあり、それならば舌にざらざら感を与えないと思う」
「カロリーメイトやウィンダーゼリーのような補助栄養食品の摂取も大切です」、と助言を頂きました。

しかし、彼は頭のなかでは、トロミをつけることの理由はわかっているのだが、
トロミに抵抗があり最後まで使用しなかった。

博志さんは長女夫婦と同居し、食事は長女が作ってくれていました。
食事制限もあり、その上食べやすい献立となると悩んでしまいます。
或る日の朝食の献立は、「豆腐半丁、スクランブルエッグ、バナナ(1/3)、ロールパン、生ハム、牛乳」が食卓に並べられていました。
その中で“生ハム”に目がいき、飲込みやすい食べ物なのかな、と疑問を抱きましたが
生ハムは彼の大好物の一つであり、好きな食べ物だからこそ、彼はむせながらも食べたのでした。

博志さんは、長年S市で土地家屋調査士として従事してきました。
自分が培ってきた実績や業界人、関連業種などの人の繋がり(つながり)を娘婿に伝えていくことを最後の仕事として決めていました。

むせても「食べる」ことで体力を取り戻し、一日も早く仕事に就かなければと思っていました。
しかし、「痰がからみ、喉がつまっている感じで食物が通らない。
それを水で押し流そうとする、そうすると余計にむせてしまう」のです。
痰がからみゲホゲホし苦しい表情をされ、傍で見ていてもこちらも辛くなりました。
それでも彼は、トロミをつけないで、食感や味覚にこだわり続けることを選んだのでした。

80歳の誕生を迎えた翌日、師走5日の朝、博志さんは39.0℃の高熱、倦怠感、呂律が回らないなどの症状が出はじめ救急車で搬送されS病院再入院となった。
医師より「誤嚥性肺炎、また敗血症もあり重症である。
後は本人の生命力にまかせるしかない」と告げられたのです。


彼はむせながらも好きな生ハムを食べ、1歳にならぬ男孫を膝に抱き、最後の幸せな時間を過ごした。
長女夫婦に見守られるなか静かに眠りにつかれたのでした。


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人生劇場

2020-06-16 17:20:38 | 阿呆者
1567 人生劇場

毎日変わらぬ日の繰り返し
日めくりカレンダーは変わる

テーブルの上には砂時計
砂時計を手に取り半回転させ置きなおした
人生は砂時計のようなもの

予告もなく
突然
人生劇場の幕は降りた

幕は降り 観客がいなくなると
寂しい風が通り抜けていった

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介護とは ⑨{臥床状態になると、“食べる”ことが楽しみ(その2)}

2020-06-16 07:15:00 | 介護の深淵


1566 介護とは ⑨{臥床状態になると、“食べる”ことが楽しみ(その2)}

~ベッドの背にもたれかかり食べるのではなく、座って食べることにより食欲がでる~

ベッドに仰向けの姿勢で寝ていると、天井と壁の世界しか眼に映らない。
仰向けから「起き上がり」、ベッド柵につかまりながらベッドの端に腰けるような状態で「座る」。
このとき踵は床に着くことで、座位姿勢は容易にとれるようになる(「端座位」という)。
本人の前にテーブルを置くと楽な姿勢で食事が摂れる。



これだけでも、ベッドの背に寄り掛かって食べるよりは、ずっと食べやすくなる。


(生活リハビリテーブルの利用)

人間、誰しも前屈み前屈みの姿勢で食べている。
前屈みの姿勢で食べることで、気道は塞がれ誤嚥性肺炎の予防ができる。



また、座ることで、首を左右に動かすことができ、眼に映る空間は180度拡がり、
外の景色や相手の顔も同じ目線で見える。
テーブルの上に置かれたお膳の料理も見下ろせ、眼で食を楽しむこともできる。
 
端座位による食事が慣れると、次はベッドから車いすに移乗させ、皆が居る食堂まで移動する。
車いすに座ったまま食卓(テーブル)に向かうのではなく、
車いすから両肘付きの椅子に移乗させ、食事をさせることが大切。

ベッドから起こし、両肘椅子に移乗させるまで、余分な手間がかかり面倒である。
時間もかかる、と介護員から不満の声がでてくる。
本来、介護というのは手間がかかるものであり、手間をかけた分、利用者は元気になる。

ベッドから「立ち上がる」「立つ」「屈み座る」の基本動作が繰り返し行われ、
知らず知らずのうちに生活リハビリがなされ、上下肢の筋力が維持また向上にもつながる。

三食とまでいかずとも、せめて昼食、夕食の2回だけでも、両肘付きの椅子に座って食事ができると、
その老人のにとり食欲も湧き、
皆と食事を摂ることで楽しくなり、美味しさも違ってくる。

ベッドから起こし、車いすに乗せ、両肘付きの椅子に再び移乗させる、
といったようにこうした一連の介護を在宅介護に求めるのは、
在宅介護者にとり容易ではないし、続けることはできない。

ケアプランのなかでヘルパー(訪問介護員)が食事介助に入っているのであれば、
最低ベッドから起こし、端座位の姿勢にさせ(踵は床に着く)テーブルを用意することにより、
前屈みの姿勢で食べることができる(前掲の図 生活リハビリテーブル参照)。

デイサービスとヘルパーの支援を上手に組み合わせ1日1回(昼食)、座る機会をつくることができる。
在宅介護者には負担をかけないケアプラン。

人間の行動には目的がある。
ただ、車いすに座らせ,置いておかれるほど退屈で辛いものはない。
食べる、他者と談笑するという目的があるから座る。

※生活リハビリテーブルの画像、カット(図)は、いずれもyahoo画像より引用しました
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介護とは ⑧{臥床状態になっても、“食べる”ことが楽しみ(その1)}

2020-06-15 03:29:46 | 介護の深淵
トトロの風景


1565 介護とは ⑧{臥床状態になっても、“食べる”ことが楽しみ(その1)}

~人間、最後まで残っている食べる力~

人間は、老いると殊更「食べる」ことが“楽しみ”であり、美味しいな~、と思うとき至福を味わう。

「今日が、あなたの最後の晩餐です」、と告げられたとき、最後にあなたは何を食べたいですか・・・。

小説『レ・ミゼラブル』の主人公 ジャン・バルジャンは、
飢えて死にそうだった妹の子供のためにパンを盗んだ。
その罪のための禁固は5年、そして何度も脱獄を繰り返したためその分追加禁固刑となり、合計19年の囚人生活を送った。
生きるためのパンであった。

介護施設で暮らしている老人やデイサービスに通っている老人は、食べることを楽しみにしている。
人間だけでなく犬や猫も同様、「食事」は楽しみのひと時である。

私たちは、食べる、排せつ、着脱、入浴、歩行などの日常生活行為は、
当たり前にできており、そのことで悩んだりするようなことはない。


脳卒中(脳血管障害後遺症)などを患い手足が思うように動かすことができなくなったとき、
いままで「できていた」日常生活行為が「できなくなり」、
他者(家族)の世話を受けなければならなくなる。

要介護5になると寝返りも困難になり、起き上がりも介助を要し、
日常生活行為も全般にわたり「全介助」の状態だと思い込んでしまう。

要介護5であっても「座ること」ができれば、
世界は大きく変わる
(なぜ世界が大きく変わるのかは、後日書いていきたい)。

要介護5は何もできない寝たきりの人と思い込んでしまう。
排せつも着替えも入浴も移動も全介助にあっても
多くの老人は、「自分の口で食べる」力(能力)を持っている。
老衰が進み、体力、筋力が落ち、ベッドに寄り掛かることもできない状態になったときは、食事は全介助になってしまう。

介護用品の食器や箸、スプーン・フォーク、滑り止めマットなどを使うことで、
不自由な手であっても、自分の手を動かし食べることができる。
その老人にとって、自分で食べれるようになると、食事は楽しみになり生きがいにもつながっていく。

人間、寝たきりになっても自分で口を動かすことができれば、
自分の意思で、自分の口で、食べることができる。
その人にとり最後に残された唯一の生きる力(能力、機能)である。


それを介護者が食事全介助されてしまうと、
その老人は本当に「何にもできない」人になってしまう。
食事は最後の残された「できる」能力であり、その能力を活かしてもらいたい。

日に3回の食事。月にすると90回、1年間では10,950回にもなり、
全介助で食べさせてもらった要介護老人と自分の力で食べた要介護老人とでは
意欲、眼の輝きが違ってくる。

食べさせてもらうのと自分で食べるのとでは食の味や楽しみも格段に違う。
どちらが食べた気がするか、一度誰かに食べさせてもらうとその違いが実感できる。

ひとり要介護老人は、何ができ、何ができない のかを見極め、
過剰な介護は行わず、「できる」ことはやっていただく(特に介護従事者に求められる)。
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介護とは ⑦{人間、生命を維持するための不可欠な欲求とは ~生きるための欲求の出発点~}

2020-06-14 14:17:20 | 介護の深淵
6月の雨 偶然田圃のなかを泳ぐカルガモ親子


1564 介護とは ⑦{人間、生命を維持するための不可欠な欲求とは ~生きるための欲求の出発点~}

介護福祉士実務者研修や介護福祉士養成の専門学校で用いる介護テキストに、
マズローの欲求階層について記述されている。
その欲求階層の最下位層にある生理的欲求は、
欲求のピラミッドにおける土台であり、
いち生物である人間が最初に抱く欲求の出発点である。

具体的には「食欲」「排せつ」「睡眠」の3つの欲求(生理的欲求)は、
生命を維持していくために不可欠な必要最低限の欲求を指す。

この介護施設なら、このサービス付き高齢者住宅なら「入りたい」「入りたくない」という分岐点は、
必要最低限の生理的欲求が満たされているか、いないか にかかっている。
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介護とは ⑥{要介護老人を疎んじる介護 ~誰のための介護か~}

2020-06-14 04:08:57 | 介護の深淵
関東平野とは違い私が棲む東北の農村は山に囲まれている。山の向うは栃木県になる。

1563 介護とは ⑥{要介護老人を疎んじる介護 ~誰のための介護か~

いまは、介護の仕事を希望する人はなく、介護事業所や介護施設は慢性的な人で不足に悩まされている。
数多の仕事があるなかで、あなたはどうして介護の仕事を選んだのか、と尋ねたくなるときがある。

介護保険制度が導入され、民間企業も介護業界に参入し、各地に高齢者施設がつくられてきた。
自分が寝たきり状態や認知症になったとき、「入りたい」と思うような施設は少ない。

94歳の絹婆さんは、サービス付き高齢者住宅に入居されてから、
精彩を欠き人間らしさが失われ、責任を感じている自分。
いまから家に戻ることもできず、
他の介護施設に転居させることもままならない。

サービス付き高齢者住宅から桜デイサービスに週3回通う絹婆さんを訪れ言葉をかけてきた。
介護は、(好きな言葉ではないが)介護される側の考え方ひとつで、
天国か地獄かのどちらかに分かれてしまう。

介護は育児(保育)と同じように“待つ” “見守る”といった姿勢が求められる。
それは、根気や時間、手間がかかる。
時間に追われる介護は、要介護老人の動作を待つのは容易ではない。

杖をつきながら小刻みに歩く絹婆さんに付き添っている時間はない。
手っ取り早く車いすに乗せ、彼女の居室から食堂まで連れて行く。
食堂に着けばいい、という考えだけで、
朝昼夕の3回、歩く機会を奪い車いすに乗せていく。

彼女の足は「虫歯」のようになり立つことや立ち上がることもできなくなってしまうことは、考えてはいない。
車いすの移動の方が介護者にとり、効率的で「楽」である。ただ、それだけの理由である。
歩けるのに、なぜ車いすですか、と尋ねると、転倒し寝たきりになったら・・・、と言い訳の言葉が返ってくる。


絹婆さんは、トイレに行くことも面倒くさがるようになってきた。
高齢者住宅では、ヘルパーは紙パンツの中に尿取りパッドを2枚入れ、
オシッコが滲み込んだ尿取りパッドの抜き取りを行っている。
2枚のパッドを抜き取ったあとは、紙パンツだけになる。

ヘルパーは翌朝、紙パンツ尿失禁で濡れても交換するわけでもなく、
その上に尿取りパッドを乗せ、デイサービスの送り出しをする。


利尿剤を服用されているのに、1日の水分は600ccしか飲んでいない。
水分が過度に不足したままデイサービスに来るので、
体も頭も働きが悪く、ぼ~とした表情で反応も動作も鈍い。

サービス付き高齢者住宅の管理者に電話を入れ、水分はどのくらい摂られているのか尋ねると、
「600ccは飲んでいますよ」と何の疑問を持たずに答える管理者。

「利尿剤も服用されており、少なくとも1,000cc~1,500ccは摂取されないと、
脱水症状になり救急搬送するようなことにもなりますよ」、と電話をとおし、十分な水分をお願いした。


介護を受ける側にある要介護老人は弱い立場にあり、
認知症老人は「嫌だ」と反発することもできない。

介護は手間がかかるサービスなのです。
排せつの介助も手間がかかる。
それを介護者が「面倒くさがり」「嫌がり」、
抜き取りパッドや汚れた紙パンツの上にパッドを乗せるような「介護」は許せるものではない。

誰のための介護をしているのか、と思うと、自分までが情けなくなってしまう。
心無い「介護」は、老人の生きる力(人間性)を奪い、死を早めていく。
そして、介護者は、自分の心が痩せ荒んでいくことさえも気がつかぬままにいるのも、
また心傷む。
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介護とは ➄ {介護サービスは利用者の自立をめざす}

2020-06-13 03:27:08 | 介護の深淵
枯れ枝とドクダミ

1562 介護とは ➄ {介護サービスは利用者の自立をめざす

介護はサービスであるから、
痒い所に手が届くようなサービスや
「やさしく」してあげるような介護を行っていけばよいのであろうか。

脳梗塞後遺症により左半身麻痺があるため、
老人は、ひとりで介護用ベッドに上がることができないでいる。

太郎介護員は、車いすから抱き起し、抱えながら介護ベッドに乗り移した(移乗介助)。
花子介護員は、老人に介護ベッドに取り付けてあった移動バー(介助バー)につかまり、
自分で立ち上がるよう言葉をかけ、立たせた。
老人は軸足を使い、自分の座る位置を目で確認し、ベッドに座った。
老人は自分でも足を上げるよう動作を行い、
花子さんの介助を受けベッドに寝ることができた。

「すべてやってあげる」介護は「やさしい」ように見えるかもしれないが、
それは老人をダメにし、寝たきり老人にさせてしまう。

花子さんは、この利用者は「手すりにつかまれば立てる」
「軸足を使えば立位からベッドに座ることができる」というように、
利用者ができることはやっていただき、
「できない」ところだけ介助(介護サービス)を行うことで、
利用者のできる力を維持させていく。

齢を重ね老人になり、思わぬ転倒や脳卒中に遭遇し、
骨折や麻痺により手足が不自由になると、
他人の手を借りなければ生活していくことができなくなる。

人は、手足は不自由になっても、自分で「用を足したい」「風呂に入りたい」と思う。
その思いを少しでも近づけるためには、
どのような支援(介護サービス)を行っていけばよいのか、
介護員は考えなければならない。

利用者(老人)個々の病状(症状)、心理(気持ち,性格)、
基本動作(寝る、起き上がり、座る、立ち上がり、立つ、歩く)は違い、
「できる」ことと「できない」ことの把握も必要になってくる。

ひとりの利用者は、何が「したい」、何が「できるようになりたい」のか、
介護者はその欲求をつかんでいるのかどうか。
ホテルマンのように痒い所に手が届くようなサービスをしてしまっては、
利用者が欲しているようなことは叶えることは難しくなる。

介護とは、介護者は利用者の自立をめざすサービスが求められ問われてくる。
自立とは何か(それは後日述べていきたい)。

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介護とは ④{介護サービスとは}

2020-06-12 17:10:17 | 介護の深淵
1561 介護とは ④ {介護サービスとは

寝たきり老人、認知症老人など介護を必要とする老人が増加し、
社会的な介護が求められ、2000(平成12)年に介護保険制度がスタートした。
介護は社会保険の一つとして位置づけられ、
利用者は介護サービスの種類や介護事業所・介護施設を選び利用できるようになった。

介護保険料を納め、利用するときには介護保険自己負担額(1割から3割)を支払い、
介護サービスを利用する(介護サービスを買う)。
介護サービスの内容が悪く、納得できないときは、
利用者その家族は市町村介護保険担当や管轄の地域包括支援センターに苦情を申し出ることもできる。

ホテルはお客様をおもてなし、このホテルを利用してよかった、
と満足していただくサービスを目指している。
痒い所に手が届くようなサービスを行う。

介護もホテルと同じくサービス業であり、
利用者はお客様として捉えていく。

麻痺や痺れ、筋力の低下等により排せつや入浴のとき
下着・ズボンの上げ下ろしが思うようにできないときなど、
手を差し伸べ介助をさせて頂く気持ちで介護サービスを行う。

「おむつを取り換えてあげる」「お風呂に入れてあげる」といったような「してあげる」といったような介護では、
介護は「サービス」である、という考えは存在しない。

介護に限らず、自分が相手(お客様)に対して行ったサービスが、
相手は満足しているかどうか、
相手の表情や言動から推し量り満足度を評価していくことが大切になってくる。

介護の現場では、
「今日はお風呂20人入れた」
「おむつ交換はいつもより早く終わることができた」などと介護職員の満足した言葉が聞かれる。
利用者は、ゆっくりとお風呂に浸かり満足できただろうか、
と自分の行ったサービスがこれでよかったのかどうか
見つめなおすことが大切。

サービスの主体者は誰なのか、
それはホテルにおいてもデイサービスやショートステイにおいても同じである。
サービスの主体者はお客様(利用者)にある。
介護は「サービスである」という考えを
介護業界のなかに浸透させていくことが求められている。
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介護とは ③ サービスとは

2020-06-12 05:09:03 | 介護の深淵
beagle genkiと散歩のとき出あった黄色花

1560 介護とは ③ {サービスとは}

「これサービスしとくよ」「これおまけするよ」と店員さんから言われると、
サービスは「ただ」というイメージがし、何か得をしたような気持ちになる。
お客様が、金を払って商品を買ってくれると、
店員さんは「ありがとうございます」と深々と頭を下げる。

店員さんは店の片隅からお客様を観察している。
このお客様は靴を買うのか、買わないのか、迷っているのか、
キャッチしながら何気なくお客様に近づき言葉をかける。

この靴ならば身長を高く見せられるし、脚を細く見せることができる。
この靴が「欲しい(ウォンツ、wants)」と思ってはみたが、
自宅の下駄箱には、履ける靴が3足あり、買うかどうか迷っている。

そこへ店員さんが何気なく近づき、
「いま着られている可愛い服によく似合っていますよ」
「どうぞ試し履きをなさってみてください」と言葉をかけられた。
「すごく素敵です」、と褒め言葉が続き、店員さんの言葉に乗せられ
つい「靴」を買ってしまった。

靴は下駄箱に3足もあるのだが、
この靴が「欲しい」という気持ちを、
お客様が財布の紐を緩めるかどうかは、
店員さんの観察力、壺を得た言葉かけが大きい。
 
十年前に読んだ本なので、書名、著者も忘れてしまったが、その本のなかにこんなことが書かれてあった。

夕食時になるとホテルのレストランで食事を摂っている白髪の男性老人がいた。
今夜も食事をされるとき、
ハガキサイズよりやや小さめの額に収められた妻の写真を左手に持ち、呟くような言葉で話しかけていた。
その様子を見ていた若い男性のホテルマンは「よろしければこの立をご利用ください」、と白髪の男性に手渡した。
男性は妻の写真を立てに置いたことで、左手も使えるようになりリラックスした気持ちで食事が摂れ、
ホテルマンのちょっとした気遣い(心配り)に感激、感謝されていた。

このように痒い所に手が届くようなホテルマンのサービスこそがもてなしであり、
お客様にまたこのホテルに泊まりたくなるような気持ちにさせる。



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最後だとわかっていたなら

2020-06-11 17:23:50 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
朽ち落ちた枯れ枝の脇に咲く白い花(マーガレット)

1559 最後だとわかっていたなら


アメリカ人の女性が、10歳の息子を亡くし、
その悲しみの思いを綴った詩です。
ところが、この詩が9.11同時多発テロの追悼集会で朗読され、
とても大きな反響を呼び、瞬く間に世界中に拡散されました。
 
この詩の素晴らしさは日本にも伝わり、
感動した佐川睦さんが著者の許可を得て和訳し、
ご自分のサイトで掲載すると、日本でもたちまち話題になり、書籍化されました。
 
tomorrow never comes
「最後だとわかっていたなら」
作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦
 
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
 
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
 
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
 
あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
 
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
 
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
 
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
 
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
 
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
 
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう
 
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから


在宅で寝たきりでいる老人
末期癌にあっても最後の瞬間まで生きている人
明日が来るとは誰にも約束されていない
今日が最後になるかもしれない、と
そう胸深く想い
「いつまでも 大切な存在だということを そっと伝えよう」

過去のことは忘れ
未来のことはわからない
現在(いま)に生きている 
認知症老人の後ろ姿から
大切な存在だということを
気づかせてくれた
生きるとは 老いとは 何かを
見つめさせてくれた
私も同じ路を辿るかもしれない・・・



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介護とは ② 

2020-06-11 05:21:18 | 介護の深淵
1558 介護とは ②

介護は、介護保険においても
「在宅介護(居宅介護)」と「施設介護」の2つがある。

ここでは、在宅介護を日々行っている家族の介護についてではなく
介護事業者や施設介護に従事されている介護職員や看護職員のケアの実態から
「介護とは何か」を考えていきたい。

在宅介護と介護事業者(デイサービス、ショートステイ、訪問介護等)・施設介護の大きな違いは
介護報酬の有無である。

在宅介護者は、無給・無休であり「家族の絆」の言葉で日々介護がなされている。
介護従事者・施設介護は、労働対価(賃金)が「高い」「安い」は関係なく
安い賃金であっても介護報酬を得ていること自体、介護のプロ(専門職)として見られるのである。
介護1年目の新人であっても、介護10年目のベテランであっても
利用者(要介護老人)に対して、質が確保された同じサービスを提供されなければならない。
しかし、介護福祉士の国家資格を取得されても、社会的評価はまだまだ低い。

介護報酬に見合ったサービス提供がなされているかどうか。

それは、介護のプロとして、質の高いサービスが提供されているかどうか、を意味し
マズローの欲求階層をとおし、「介護とは」、を考えていきたい。




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(人間にとり)介護とは ①

2020-06-10 20:44:42 | 介護の深淵
111歳の誕生日を迎え、明治・大正・昭和・平成・令和を生き抜き逝かれた安達サタさん



1557 (人間にとり)介護とは  ①

{介護の深淵}のなかで「生理的欲求と介護」を6回ブログに掲載してきた。
その内容と一部重複するけれども
『人間にとり、介護とは』を
ケアマネジャーの立場からではなく、
人間の視点から捉えなおしていかねば、と思った。

なぜ、そう思ったのか。
最近、あるサービス付き高齢者住宅に
入居を勧めたまでは良かったが、
入居した老人は無残にも変わり果てていった。
生きる屍となり表情が乏しくなってきたことに
心傷め、悶々としている。

初心(原点)に帰り、介護とは何か、を考えていきたい。
介護の本質をどこまで書けるか、不安であるけれども
ブログを訪問して下さる皆様のコメント(ご感想やご意見)などに
教えられながら、一緒に考えていくことができれば、と思っている。

介護とは、「人間回復の営み」である、と思ってきた自分。




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この空を飛べたら

2020-06-10 04:57:01 | 阿呆者
1556 この空を飛べたら



この空を飛びたら
鳥になりたい

碧い海を泳げたら
魚になりたい

この草原を走れたら
馬になりたい

海の見える家で棲めたら
最期の風景としたい

老いてもまだ 
生きたと感じていないのは
死ぬより 悲しい・・・・
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山ではなく「海」の仙人

2020-06-09 04:30:52 | 読む 聞く 見る
1555;絲山秋子『海の仙人』新潮文庫

仙人というと、人間界を離れ、白い髭を垂らし山奥に棲む人をイメージしてしまう。

『海の仙人』は、敦賀の海で
遊び眺めることが好きな無職の男 河野勝男の物語である(齢は若く29歳)

彼は宝くじが当たり、真新しい通帳に3億円の数字が打刻されてあった。
他にアパート2軒を所有しており、その家賃収入は貧しい地域の子どもたちを支援目的で寄付していた。
お金に固執することなく、のんびりと過ごすことにした。

東京から敦賀の海が見える古い家を買い、ひとり暮らしを始めた。
けったいなことにファンタジーという名の神様が現れ、ファンタジーは河野の家に居候をする。
(この神は、見える人間と見えない人間がいて、河野は見えた)

河野の部屋は、テレビや新聞はなく、
ラジオとパソコン(インターネット)で音楽とニュースを得ていたのみ。

河野は「世の中を避けて生きている」から海の仙人と呼ばれていた。(51頁)

人間「誰もが孤独なのだ」
「結婚していようが、子供がいようが、孫がいようが、孤独はずっと付きまとう」
「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか? 外との関係じゃなくて
 自分のあり方だよ。背負っていかくなちゃいけない最低限の荷物だよ。例えば
 あたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」(96頁)

月1回彼の家に訪れる中村かりん。 
河野も想いを寄せ、お互いに静かな愛の関係にあった。

かりんは左乳癌を発病し乳房切除の手術を受けることになった。
癌は無情にも二ヶ月後の検診で脊髄と肺に転移し、余命は半年から一年。

かりんが療養しているホスピスに河野は訪れ、泊まった。
彼女は「もっと、一緒にいたかったね」
「でも、私はあなたのこと、好きになれてよかった。
 今だけでも、あなたと、あなたのことを好きな自分が
 ここにいることがとてもありがたいって思う」(136頁)

その言葉を残し彼女は息を引き取った。
「生きている限り人間は進んで行く。死んだ人間は置いて行くしかないのだ」(144頁)
死んだ人間を置いて行っても、そう簡単にあなたを忘れることはできない。

人間、「誰もが孤独なのだ」という言葉が頭の片隅によぎるけれども
死が近づいてくるほど、心の平安を欲する。
「あなた」と「あなたのことが好きな自分」が
いまこうして、時間を共有していることが幸せに感じながら息を引き取った彼女。



自分も「海の見える家」で最後の時間を過ごしたい、と思っているが
どこで最後の風景を見るかは
ファンタジーという面白い神様が知っているのかもしれない。



 


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四角い餅の厚さほど・・・・

2020-06-08 11:21:48 | 阿呆者
1554;四角い餅の厚さほど・・・・

風呂に入るとき
鏡に映る我が躰見て
溜息漏れる

溜息をつくと
傍にいたwifeは「幸せが逃げるよ」と
聞こえるように呟く

「飛沫感染ではなく、肥満感染だね」
腹の肉を掴むと、四角い餅の厚さほどになる
「醜いアヒルだね」と呟くと
wifeは「アヒルが可哀そうだよ」

浮腫もあるが、油断したら2㎏ほど体重が増えた
心は痩せずに、何とか躰は痩せるよう頑張らねば・・・・ 
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