皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

防人歌に見える埼玉郡の住人

2019-10-26 22:42:28 | いろはにほへと

 市内藤原町にある八幡山古墳は「関東の石舞台」と呼ばれる、巨大な石室が露出した円墳であるが、その古墳の前には万葉集に収められた防人歌の石碑が建てられている。

『万葉集』巻二〇に天平勝宝七年(755)の交替期の諸国の防人たちが出発前に提出した歌の内うち、武蔵国各郡の防人とその妻の歌を武蔵国防人部領使の三等官、安曇宿禰三国(あずみのすくねみくに)が国に選出した十二首が収載されている。

 この中で埼玉郡上丁(かみつよぼろ)藤原部等母麿(ふじわらべのともまろ)とその妻、物部刀自売(もののべのとじめ)の歌が十二首の最後に上がっている。

 足柄の御坂(みさか)に立して袖振らば 家なる妹はさやかに見もかも

 色深く背なが衣は染めましを 御坂たばらばまさやかに見む

「足柄山に立って袖を振ったのならば、家にいる妻にははっきり見えるだろうか」

「色濃く夫の衣を染めるべきであった。そうすれば足柄山の坂に立つ姿がはっきりとみえるだろうに」

夫婦ともに「足柄山」を読んでいるのはそこが坂東の境界と認識されていたからで、それより先に行ってしまうともう二度と会うことはできないという別離の悲しみが良く歌い込まれた秀歌であるという。

夫である藤原部等母麿。藤原部というのは、いわゆる御名代部と称し、その名が永久に伝わることを図っているという。例えば日本武尊のために武部が置かれ、雄略天皇は皇后の御名代として大草香部を置いたという。藤原部は允恭天皇が衣通郎姫のために設けられた御名代であるという。それではこの藤原部等母麿が埼玉郡のどこに住んでいたかは難しいところであったが、県は太田村若小玉の地を推定し、昭和19年に史蹟にしてしている。藤原氏を祀る春日神社もほど近く、小崎にも近かったからだという。現在でも地名が藤原となっている通り、姓も「藤」の付くものが多いという。(藤江、斎藤、遠藤など)しかもこの地より南西方向を見ると美しく冠雪を纏う富士の山も目にすることができる。また八幡山古墳の被葬者は当時相当有力な豪族であったともいう。(聖徳太子の舎人=直属の従者、物部連兄麻呂の説)

万葉集に収められた武蔵国防人の歌十二首の最後にこの一組の唱和が納められているのは、二人の歌がそれだけ秀逸であったからだとも言われている。富士の向こうには足柄の御坂も連想されるのであったのだろう。

 

 

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五徳の冠者と平家物語

2019-03-04 20:35:06 | いろはにほへと

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。

おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。

猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

インドの祇園精舎という寺の無常堂の鐘の音は「世の中のすべとのものは、生まれては滅び流れては去っていき、とどまることはない」と説いている。お釈迦様が亡くなった時、白い色に変わったという沙羅双樹の花の色は、いま勢いの盛んなものも、いつしか必ず衰える時がくるという道理を示している。おごりたかぶる人もその暮らしがいつまでも続くことはなく、ちょうど春の夜に見る夢の様に儚いものである。そして荒々しい強い者でも最後には滅びゆく。それはまるでたあいもなく吹き飛ばされてしまう風の前の塵に等しい。

 あまりにも有名なこの平家物語の節は今でも小学校高学年で暗唱するほど読み込まれている。

 では作者は誰なのか。諸説ある中で『徒然草』の伝える信濃前司藤原行長が書き、生仏という琵琶法師に語らせたという説が信頼できるという。そして藤原行長の生涯と『平家物語』を書きあげた経緯がまた興味深い。

 

 

後鳥羽上皇の院の御所で開かれた御論議で「七徳の舞」について講義した藤原行長。「一には暴を禁じ、二に兵を治め、三に大を保ち、四に功を定め、五に民を安んじ…」ところがこの後が思い出せなかったという。(六に衆を和し、七に財を豊かにする)

 他の公卿からは「お忘れになられたのか」と問いただされ、上皇に低頭する行長に対し、後鳥羽院はこう諭したという。「七徳の二つを忘れた行長にいい名前を授けよう。今日からそなたを『五徳の冠者』呼ぶがよい」

 あまりの落胆から行長は官職を捨て都の外の草庵にひこもり、今の自分と同じように栄華を極めながら滅んでいった平家一門の物語を書き始めたという。但し源氏や武士にの合戦について造詣はなく、思案していたところ天台座主慈円が物語を読み、源平合戦のことをよく知る琵琶法師生仏を紹介したという。

 こうして『平家物語』が藤原行長によってまとめ上げられたのは建長二年(1250)。無念の思いを抱えながら書きあげた軍記物語は、その後多くの人々の加筆を受けながら今日まで読み伝えられている。

 8百年の後、自分の残した物語が多くの人々から読み知られることを五徳冠者と蔑まれた行長は思いもよらなかったに違いない。

 

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笹乃雪

2019-02-18 21:47:10 | いろはにほへと

「水無月や 根岸涼しき 笹乃雪」 正岡子規

台東区根岸2丁目豆富料理笹乃雪。初代玉屋忠兵衛が後西天皇の皇子の御供で江戸に下り、根岸の地にて絹ごし豆腐を作ったのが始まり。豆富を親王に献上したところ、京を懐かしみ「笹の上に積りし雪の如き美しさよ」称されたことから、料理屋の屋号を「笹乃雪」と名付けたという。

9代目当主奥村多吉は料理店に「腐る」という字はふさわしくないとして「豆腐」を「豆富」と記すようにしたという。

正岡子規、夏目漱石など多くの文人歌人も訪れたという。

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古の先行く人の跡見れば

2019-01-29 22:49:31 | いろはにほへと

古の先行く人の跡見れば

踏み行く道は 紅いに染む

 新渡戸稲造 (鍵山秀三郎 『寸土力耕』より)

明治の教育者、新渡戸稲造の感じていたことがこの句に込められているという。新渡戸家は主君に尽くし功がありながらも讒言を受けて悲運に見舞われ続けた。しかしながら稲造自身はまだ父祖父ほどの辛い目にあっておらず、国の前途を憂いて警世の言を上げたことで迫害を受けるのは、新渡戸家の宿命との思いだったという。

人に先駆けて事を成すのは難しい。よってその後を継いだものはその幸せを噛みしめつつ、後世に受け渡す責務を負う。今自分はそんなふうに解釈しています。

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ちはやぶる 神代もきかず

2018-11-18 22:10:38 | いろはにほへと

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川

 からくれなゐに 水くくるとは   在原業平朝臣

 神々の世であった昔にも聞いたことがない。龍田川の水面に紅葉が散り敷いて、川の水を鮮やかな真紅ののしぼり染めにしているとはなんと美しいことだろう。

 百人一首で紅葉の歌は六首あるという。また桜の歌も同じく六首。今日でも春の桜に対し秋の紅葉が日本の四季を表す風景となっている。紅葉の鮮やかさは錦織の着物に例えられ「紅葉の錦」と読まれたという。布や着物にちなんだ表現が多いのはそれが読み手である貴族の生活で大切にされていたことの表れだという。

 在原業平は六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公。天皇の后になる女性との熱烈な恋で知られた貴公子。

この歌にも業平の歌人としてのスケールの大きさが表れているという。

どことなく花輪君をイメージしてしまう・・・

 

 

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