皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

明神様のお使い(旧騎西町外田ケ谷)

2021-04-29 20:59:04 | 昔々の物語

鴻巣市、加須市、行田市の三市境を流れる星川。旧騎西町外田ケ谷の西に久伊豆神社が鎮座します。地元ではクイズ社とも呼ばれます。このお社はかつて明神様と呼ばれ『いざと云う時は神様のお使いが現れて村を守ってくれる』という言い伝えが残っています。

明治43年(1910)の夏のこと。大雨のためこの辺りが大洪水となりました。外田ケ谷は周りが堤で囲まれた土地であったため、流れ込んだ水はたちまち村に溢れました。

『このままじゃ田んぼはおろか、家まで流されちまうぞ』

『堤を切りに行こうにも、こう流れが強くちゃ、命の方があぶなかんべ』

そうこうしているうちに、水はどんどん増えてゆき家の押し入れの中にまで水は押し寄せてきました。

そんな時どこからともなく一匹の大蛇が現れて、大水にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいくではありませんか。

『もしかして明神様の【お使い】じゃなかんべか』

堤に何度かぶつかると遠くへ消えてゆきました。

すると堤に切れ目ができて、そこから水があふれ出し、村の水はどんどん引いていきました。大蛇の働きで村は大きな被害を受けずに済みました。

 村人は「明神様のお使い」(大蛇)に深く感謝したということです。

「埼玉の神社」にはこの話が明治43年のことで大蛇を見たものが何人もあったと記しています。昔話といえば、新しくとも江戸期の話というイメージを持ちますが、維新後の明治期の話が実際に残っていて、逸話のように実際に伝わっていることに驚いています。

しかもこの話には続きがあって、隣村の道地には泳いでいった大蛇の話の続きがあるのです。

暫くして道地の愛宕様(大正期に稲荷社に合祀)の沼にどうしたわけかこの大蛇が住み着いてしまい、祟りを恐れた村人たちは毎日酒や米を供えて拝んではやっとのことで沼から出て行ってもらったということです。

久伊豆様のお宮にはその名残を伝える弁財天と渡橋が今でも残っています。

参考引用先 加須インターネット博物館「明神様のお使い」より

 

 

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福川樋門と亀のお礼

2021-03-30 22:05:36 | 昔々の物語

福川は深谷市岡付近から東へと注ぐ一級河川で利根川後背沿いにその流れを増してゆく。北河原用水、酒巻導水路を分岐して行田市内酒巻で利根川に合流する。自然合流ではなく福川水門が設置されている。

現在も使用されるこの大型の水門は利根川の逆流を防ぐ働きがあるという。桜の咲くこの時期には堤を菜の花が覆いまるで黄色い絨毯が敷き詰められた景色が広がっている。

春の蓬摘みの姿も見られる風光明媚な場所ではあるが、利根川、福川の合流するこの地は古くから治水の歴史と悲劇が交差する自然の厳しささらされた土地であったという。福川を下って中条方面には今も中条堤が残されていて、江戸期には江戸を洪水から守るために、堤の一部を狭窄状にし、増水時にはわざと広域に水を広げることにより周辺区域の治水の役割を引き受けてきたという。(中條堤と治水の歴史)

現在の水門の上流300m付近には大正期に建てられた福川樋門の碑が残っている

東京湾から157Km、約100マイルの水門が建つ福川には岸辺に小さな小屋が建っていてかつては四つ手網漁がおこなわれていた。小屋は昭和20年代に建てられて、春と秋に鯉やフナなどを捕っていた。

網には様々な魚が掛かり、時には亀もかかったそうだ。

 昔とある長者が川遊びをしていると一匹の亀が嚙みついて離れない。仕方なく家まで連れて帰ると、長者は亀を柱に縛り付けてしまった。

 暑さで弱ってゆく亀を見た女中のお福は憐れんで水をかけてやった。すると元気を取り戻した亀は網を切って逃げていった。

 

数日後お福が川で洗濯をしていると助けた亀が現れる。見ると口には金を咥えているではないか。亀はそれをお福に渡して帰っていたという。

 この話はたちまち巷で評判になって、亀はきっと川の主であったであろうと人々は語り合い、福を授けた川としてこの川を「福川」と呼ぶようになった。(「妻沼町風物史話」より)

川や海、沼など水に纏わる逸話や伝承は各地に多い。時に動物を交えて時の風習、習俗、後世へ伝えるべき事柄を伝承として残している。

堤に広がる菜の花の美しい景色とともに私たちの次に世代に残してゆくべきものだろう。

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蘇民将来と牛頭天王

2020-05-21 21:31:25 | 昔々の物語

 日本各地(特に西日本)においては蘇民将来と牛頭天王についての逸話が残っている。今般のウィルス蔓延に当たり、日本人が古くから疫病や災いに対して、どう向き合ってきたかを知る貴重な物語だ。

 昔々あるところに牛頭天王というひとがいました。そろそろお嫁さんを迎えたいと思っていたところ、鳩がやってきて「竜宮城へ行くとよい」と告げたといいます。

 竜宮城への旅の途中とまる宿を探していると、お金持ちの巨旦(ごたん)の家がありました。牛頭天王が「一晩泊めてください」と頼むと「うちは貧しいから泊められないよ」とうそをついて断られました。

 困った牛頭天王が歩いていくと蘇民将来という者の家に着きます。貧しいながらも心優しい蘇民は「汚れていますがどうぞお泊りください」と言って牛頭天王をもてなしました。

 次の日出発前に牛頭天王は泊めてもらったお礼に宝物の珠を蘇民に手渡します。この珠は心の優しいものが持つと財を成すというものでした。

 その後牛頭天王は無事竜宮城へ着くことができ、お嫁さんをもらい多くの王子の父となりました。

 八年の時が過ぎ牛頭天王は自分の生まれ故郷に帰ることにします。途中また蘇民の家によると、心優しい蘇民は長者になっていましたが、それを羨んだ巨旦も牛頭天王を家に泊めようとしましたが、意地悪は変わらなかったため、災いばかりが起こったといいます。

 一方蘇民はその後もいつまでも心優しく、幸せに暮らしたといいます。

 牛頭天王とは悪いことを追い払う神だったのです。代々蘇民の家の人々は、この時牛頭天王の言った通り「蘇民将来」と書いた木を身につけていました。それがお守りとなって代々幸せに暮らしているとのことです。

 ある地方では正月の注連縄を一年中飾っておくそうです。その札には「蘇民将来子孫家門」と書かれています。昔話にあった「私は蘇民将来の子孫の家です」とわかるようにして災いが起こらないと願っているそうです。

牛頭天王とは荒ぶる神、素戔嗚尊とされ、京都市八坂神社を中心とした祇園信仰、愛知県津島市の津島神社を中心とした天王信仰として古くから疫病除けの神として知られている。

 

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北条氏政と汁かけ飯

2020-01-28 23:16:18 | 昔々の物語

 今年もNHk大河ドラマがスタートした。時は戦国、主人公は明智光秀。『麒麟が来る』のタイトルもまたとても興味深く、開始2話ながら戦国の物語に引き込まれてしまった。第一話での光秀の言葉に『旅をして解った。京にも美濃にも麒麟はいない。ならば自ら麒麟となって戦いのない世を作る他ない 』といった台詞があり、やはり時代を問わず生きる上での使命を持った人はかがやきを見せると感心して見ていた。

 近年の大河ドラマで特に記憶に残った作品はやはり2016年の『真田丸』。堺雅人演じる真田信繫が、北条攻めに際して、時の4代当主氏政を説得したシーンを覚えている。

氏政を演じていたのは高島政伸でその演技ぶりは今回麒麟が来るの齋藤道三役、本木雅弘に通じるものがあるように感じた。

結果からすれば豊臣軍に屈した北条の当主として敗者のイメージが付きまとい、後世に於いてもその負の側面を表した逸話がついて廻る。

氏政の有名な逸話の一つに『汁かけ飯の話』が残っている。

食事の際、氏政が汁を飯にかけて食したところ、その汁が足りなかったのかもう一度汁をかけたしたという。これを見た父の氏康が『毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条も儂の代で終わりであろう』と嘆いたというのである。汁かけの飯の量も量れぬものに領地や家臣を推し量ることはできるはずもないとの意味である。

 結果的に小田原落城を招いたことで、氏政の評価は低くみられがちだが、実際にはこの逸話は後世の創作だったようで、同様の逸話が毛利元就と輝元の間にも残っているという。

 『麒麟が来る』に戻るが、歴史は勝者によって語られる。敗者は汚名を着せられて時の流れに漂うしかないのなかったのだろう。だから勝ち抜かなければならない。目の前の敵を切り倒さなければならない。少なくとも近世まではそれが世の常だった。

 平和な時代に生かされることで、その敗者の歴史にも光を当てることができるのだろう。

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新川村の大うなぎ

2019-10-25 23:02:49 | 昔々の物語

 100年ほど前に荒川の水運で栄えた久下新川村。現在その姿はなく、今は荒川堤の中に一部耕地が広がるばかりではありますが、当時の様子を伝える逸話が今も残っています。

 新川地区は今もそうですが、昔も堤外にあり毎年のように洪水に悩まされていました。

 ある年かつてなかったような大水が新川村をおそいます。村人たちは高台へ逃れて何とか命拾いしましたが、自分たちが丹精込めて耕した田畑やついさっきまで暮らしていた家々は今にも大水に吞まれようとしているところをただ茫然と眺めることしかできませんでした。

 その時です。とてつもなく大きなうなぎが下流から川をさかのぼって来るではありませんか。その姿を見て村人たちは「これは神様のお叱りに違いない」と思って土下座して拝んでいると、やがてうなぎはゆうゆうと泳いで上流の方へ消えていったといいます。

 すると驚いたことに、水がいっせいに上流のほうへと向きを変え、大うなぎが泳いでいく方向へ逆流し始めたのです。おかげで村は大水から救われました。

 そればかりではありません。それからしばらくたってまたまた村が大水にみまわれた時、今度は更に急だったため、かなりの村人が激流に呑まれ流されそうになったところ、またしてもあの大うなぎが現れて、溺れかかった人々を背中に乗せて、次々に高台に助け上げてくれたのです。

 このように二度までも大うなぎに助けられた新川村の人々はうなぎを神として祀り、二度と食べなかったということです。

 『熊谷市史』「ふるさとの話」より

うなぎにまつわる逸話や伝承も全国各地に見られます。埼玉の鰻といえば浦和が有名ですが、北埼玉の行田、熊谷にも多くの鰻の老舗名店があります。余談ではありますが、私自身結婚する際、地元の鰻の名店の御座敷にて結納をしたことを懐かしく思います。

 ニュージーランドの先住民マオリ族もうなぎを神聖な生き物として崇拝の対象にしているといいます。

うなぎは古くから日本人の食文化として親しまれてきた一方生態については謎の多い生き物とされています。身近な御馳走として食べられた歴史の陰で、神秘的な生き物としても語り継がれているようです。

 

 

 

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