皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

河童の妙薬

2019-10-24 22:52:41 | 昔々の物語

 昔熊谷宿のある商家に、旦那さんに先立たれたばかりの女将さんが居りました。

 毎日毎日それはそれは悲しんでばかりおりましたところ、ある晩厠に入り小用を足しておると何やら尻を触られるのでした。

「おかしいな」と思っていると次の日も、また次の日も同じようなことが起こります。

 怒った女将さんはある晩短刀で尻を触ってくる腕を切り落としてやりました。すると大きな悲鳴と共に女将さんの手に残ったものは黒い毛むくじゃらの右腕でありました。

 翌日女将さんの店には黒い不思議な老人がやってきます。女将さんに会いたいと申し出たので会ってみると、その老人は右腕を隠しておりました。しかも「昨晩女将が珍しいものを手に入れたそうだから、ぜひそれを私に譲ってほしい」というではありませんか。

 いかがわしく自分の身に触ってきたのは目の前の老人だと思い当たった女将さんは、今後は二度とあんな悪戯はしないと約束させて、切り落とした右腕を返してやりました。

 すると不思議なことにその老人は持ってきた薬を塗って腕をくっつけると、その腕は何ともなかったように元通りに動くではありませんか。

 それから老人は自分が河童であることを名乗ると、お詫びのしるしとして、その薬の作り方を教えていきました。それが「河童の妙薬」として有名になり飛ぶように売れるようになったといいます。

 おかげでひとり身の女将さんはお金に困ることなく、幸せに暮らしたということです。

『熊谷市史』「ふるさとぼはなし」より

河童の妙薬と呼ばれる逸話は日本各地に残っているといいます。多くの伝承のあらすじは河童が人間や馬に悪戯をし、その人に捕まって懲らしめられ、お詫びの印に薬を渡すというものです。熊谷市史に出てくるように懲らしめられる際、腕を切り落とされ、その手を返してもらう際に手を繋ぐ良い薬を渡すといった例が見られます。薬の種類は骨接ぎ、打ち身、熱湯に効く薬があるといい、その背景に水の妖怪である河童が相撲が好きで怪我が多く、また金属を嫌うことから刃物の切り傷に効果があると考えられます。

 こうした薬は古くは家伝薬として実際売られ、使われていたそうです。明治に入って漢方医学から西洋医学に移行し、製薬業が成り立つとこうした家伝薬は姿を消します。

茨城県小美玉市にはこうした伝承に因んだ「手接神社」もあるといいます。

非常に興味深い逸話だと思います。

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武士の世の始まり 平氏、栄える~平忠盛伝②

2019-09-23 21:59:25 | 昔々の物語

殿上人となった忠盛を討とうとする話はやがて忠盛本人の耳に入る。

「さてさて厄介なことになったものかな」忠盛は眉をひそめた。

「わしが文官ならば、宴会に行かなければ済む。しかしながら武家に生まれながら、闇討ちの噂に怯えて行かぬと知れれば、とんだ臆病者とあざけられるであろう。かといってまともに相手をすれば大騒動になりかねぬ」

宴会の日忠盛は少し長めの短刀を無造作に腰に挿して出かけて行った。

「今宵わしを襲って痛めつけようとする輩がいると聞く。そ奴が襲ってきたらばこれで相手をいたそう」そういって銀色に光る短刀をこめかみにあて、切れ味を確かめるようにさらりとこめかみの毛をかき撫でたという。待ち伏せていた闇討ちの首謀者はそのさまを見て逆に恐怖におののいたという。

やがて紫宸殿(内裏の正殿)の宴会が始まるとその席でも忠盛は短刀を抜きしきりに鬢の毛をさらりと撫でている。銀色の刀身が灯火にぎらりとかがやき、居並んだ公家たちはただ息をのむばかりであった。

「宮中での帯刀は固く禁じられている。その決まりを破るとは朝廷をないがしろにすること甚だし」「武家といえども、殿上人の交わりに刀を差して現れるとは呆れた次第」公家たちは忠盛に隠れて罵った。

やがて忠盛は宴の途中で席を立つ。控えの間にいた役人に短刀を鞘ごと預けると、「これを私から預かったこと、後々よく申し述べてほしい」と言って帰途に就く。

「直ちに官位を削り、忠盛を重い罪に問うべきである」なすすべなく残された公家の面々はそう訴えた。

 事の次第を公家衆から聴いた鳥羽上皇は驚いて、忠盛を呼び出し問いただすと、

「そのことについては、宴会に控えていた役人に刀を預けておりますので、お調べ願います」と忠盛は落ち着いて答えたという。

宴会係の役人が預かっていた短刀を以て「確かに私が平忠盛殿よりお預かりしております」と言って差し出した。鞘から抜いてみると、刀身は木刀に銀紙を貼ったものであったという。

武士としての名を辱めることなく、またおめおめと闇討ちされないための思案ががまさにこれであった。

上皇は「「誠に立派な思案である。武士とはまさにそうでなくてはならぬ」と言って忠盛をほめたたえたという。それ以来忠盛の昇殿をとやかく言うものはいなくなった。貴族社会に武士としての存在を示した出来事として語り継がれたという。

後に忠盛が亡くなった際、公家の一人は日記にこう記したという。

忠盛は巨万の富を蓄え、多くの者を召し使いしかも武勇に優れていた。けれど慎み深く、おごりや贅沢をせずに世の人々はその死を心からおしんだ

平家の繁栄を築いたのは清盛の力であることが大きいが、その父忠盛の人柄が基盤となっている。

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武士の世の始まり 平氏、栄える~平忠盛伝①

2019-09-21 22:47:02 | 昔々の物語

 武士を意味する『侍』とは「侍ふ(さぶらう)』から出たという。「さぶらう」とは身分の高いひとのそば近くに控えること。その言葉通り、源氏も弊誌も都の貴族=公家にさぶらい、護衛の役を務めた。源氏と平氏は競い合うようにして勢いを伸ばし、はじめは源氏が優勢であった。特に奥州の反乱を鎮めた八幡太郎義家は「天下一の武勇の士」とうたわれた。

 これに対し平氏はあまり振るわなった。はじめ東国に勢力を伸ばしたものの、平将門の乱によって地盤を失い、その後伊賀、伊勢(三重県)に本拠を移し「伊勢平氏」と呼ばれるようになった。

 伊勢平氏が中央の貴族に名を知られるようになったのは平清盛の祖父正盛の時。当時の白河法皇の信頼を得て、朝廷のいうことを聞かない八幡太郎義家の次男、源義親を討って武名をあげた。

 そのころ源氏は義家の後を巡り、一族の争いが起きていた。義家の孫、源為義が後を継ぎ棟梁となったが凡庸な人物で、貴族や朝廷の信頼を得ることができなかった。

一方平家は棟梁となる人物の引継ぎが上手くいっていた。正盛の息子平忠盛は、父と共に白河法皇に仕え、朝廷の命により二度に亘って瀬戸内海や九州沿岸の海賊を討ち滅ぼし、同時に中国との貿易を大いにとりまとめ、宋との商人との間で取引を行い、財力を蓄えていった。

 その財力で寺社を建て、土地を寄進し上皇による政治を支えることで益々信頼を勝ち取り、結果昇殿を許される身分を得た。内裏の清涼殿の間に出入りを許されることで、貴族でも特別の資格でなければ許されない名誉であった。昇殿を許された人物のことを「殿上人」と呼び敬われた。雲上人ともいい、雲の上の人という意味であった。

 しかし周囲の貴族たちは忠盛の昇殿に反発した。これまでの身分では武士は貴族に仕える立場であり、低い存在であると思われてきたからだ。憤慨した貴族たちは宮中での宴会の席で忠盛を闇討ちにする計画を立てた。暗闇に紛れて討ち滅ぼす、闇討ちの計画が立てられていったという。

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事八日のネロハ除け

2019-07-04 15:10:58 | 昔々の物語

旧大利根町北大桑地区には「ネロハ」と呼ばれる一つ目お化けの逸話や伝承が残っている。逸話の起源を想うと昔からの農村部における人々の暮らしが垣間見える。

昔の農家は朝早くから夜遅くまで寝る間も惜しんで働いたという。特に嫁にきた者の仕事は多く、人一倍大変だった。

 秋も深まった日の晩、農家に嫁いだ娘のことを心配に思った母親はそっと様子を見に行った。心配した通り娘は寒さをこらえながら夜なべの仕事をし、不憫に思った母親はせめて一晩だけでもゆっくり眠らせてやりたいと願いあれこれ思案したという。

 師走の八日の晩思いったた母親は髪の毛をひりほどき額に日本の鰹節を括り付け帯ひるまいの姿で娘の家へと向かったという。

「ネロハー、ネロハー」

大声で母親は叫びながら戸をドンドンと叩いた。

突然のことに驚いた家の者は、恐る恐る外を覗くと鬼が戸を叩いている。慌てた家の者は「嫁ご、早よ寝ろ、鬼が来たぞ」と言って家の灯りを消して寝てしまった。

 それからというもの、師走と如月の八日には「夜早く寝ないと鬼が婿に来る(嫁を盗みに来る)」と言って代わり飯(いつもと違ったご飯)をして早く寝るようになったという。

「ネロハ」とは北埼玉の方言で騎西地区においては昭和の初めまでこうした行事が行われていたという。如月八日を事始、師走八日を事納めとし、長い竿の先にみけざる(目の粗いザル)をかぶせ、庭に立てたという。一つ目の鬼が目の多いザルに驚いて逃げ出すと考えられたからである。

物語そのものが、娘を心配した親心から始まっていて、時代を超えて共感するものがある。嫁いでも娘が愛おしいの思いは変わらない。

農家に纏わる伝承は、祭りによって伝えられることが多い。

(引用 加須インターネット博物館 / 加須ものがたり/ネロハ )

 

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白良浜の甲羅法師

2019-04-16 23:43:03 | 昔々の物語

南紀白浜の地名の由来となった美しい砂浜の広がる白良浜海岸。そこにはこんな逸話が残っています

昔は白良浜の周りにたくさんの田んぼがありました。村には彦左といふ百姓が住んでいて、たいそうな働き者として知られていました。そんな彦左は村一番の角力取りとしても知られていました。

そのころ白良の浜には甲羅法師(かっぱ)が住んでいてこどもの足を引っ張たり、夜な夜な陸に上がっては畑の大根を抜くなど悪さをしていました。

ある夏の夕刻、西の海に赤い夕日が沈み、薄暗くなったころ、仕事を終えて帰ろうとしたさ彦左は「ひこざ、ひこざ」と浜辺で自分の名を呼ばれます。「おーい」と返事を返すと海の中から丘へ上がって来るものがいます。そう、甲羅法師でした。悪さをする河童を懲らしめようと彦左は「良いところで出会った。一つ力自慢に角力をとろう」と申し出ます。甲羅法師も腕に自信があり「よし、角力をとろう」と答えます。

二人は組み合うと力自慢の彦左は甲羅法師(河童)を浜に投げつけました。ひっくり返った甲羅法師は頭から血を流し、「もう悪さはしない命だけは助けてくれ」と涙を流して謝りました。

彦左は「命を助けてやるがこれからは二度と陸に上がることはするな」と甲羅法師に約束させます。そして「万が一白浜の砂が黒くなり、沖の四そう島に松が生えるようなことがあれば陸に上がってもよい」と諭します。

そののち甲羅法師は陸に上がろうと白良浜に墨を塗りましたが波に洗われて消えてしまいます。また四双島に松を植えますが波に流されて消えてなくなります。

こうして甲羅法師は丘へ上がることはなくなったといいます。

悪さをした河童がただ海に帰るのではなく、希望を持たせつつかなわない儚さを伝える味のある逸話となっています。

鬼、天狗と並んで河童にまつわる伝説逸話も数多いようです。妖怪であるが川と童が相まって河童の語源となったようにどことなく、悪さをするも大人に諭される印象が強いように思います。

九州には河童伝説が多く、壇ノ浦に敗れた平家はちりじりになって九州へ逃れたものの、追っ手に討たれて死んでいった後、その霊魂は河童となり、九州各地で田畑を荒すなど悪戯を働いたと伝わります。

敗れた者の悲しい伝説と言えるでしょう。

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