皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

平将門が振りかざした刀剣は

2022-05-15 21:36:30 | 歴史探訪

両雄並び立たず。鎌倉殿の十三人もいよいよ源平争乱の後、源氏内での争いと後白河法王との関係を中心に、政治的駆け引きが物語の中核となった。今後も頼朝なき後、合議制へと移行するまで多くの紆余曲折が描かれていくのだろう。毎週楽しみにしている。
戦の天才と言わしめた九郎義経であったが、刺客から逃れ、敢えなく都落ちする様子が描かれていた。当時の日本刀は護身用の短刀にしろ、いくさ場での刀剣にしろ、すでに片刃の反りの入ったものが使われている。
古代の古墳から出土する鉄剣は稲荷山古墳出土の金錯銘にも見られるように直刀で両刃のものだ。
ではいつから反り始めたのか。

秩父市に残る蕨手刀は明治41年出土の埼玉県有形指定文化財。小学校の校庭にあった円墳から見つかっている。製作年代は7~8世紀とされる。柄頭が蕨の若芽ににていることから「蕨手刀」と呼ばれている。
直刀から反りのある刀への進化は当時東北地方の蝦夷が使っていたとされるこの「蕨手刀」という刀に影響を受けたと考えられている。
なぜ直刀から反りが入ったのかと言えば、馬上での戦が行われるようになったから。埼玉、群馬、千葉など律令期の関東は非情に開墾が進み、荘園も増える一方、国司による年貢の横領や厳しい支配が横行した時代で、そうした不満に答えて立ち上がったのが、平将門であった。
将門は一族の争いおさめ、関東の国府軍を打ち破り東国の国印すべてを手にいれている。

「新皇」と称して東国をおさめようとした基盤として、武具と軍馬の生産に力をいれていたという。用意周到であったのだ。
時代と共に進化していく刀剣。進化の始めに柄についていたのは「蕨の若芽」であった。
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仮面の女神

2022-03-22 16:44:05 | 歴史探訪

長野県茅野市中ツ原遺跡出土の国宝土偶。「仮面の女神」
平成12年(2000年)に出土したこの土偶は顔に仮面を纏っている。仮面土偶というのはこれだけに限らないそうだが、その大きさは高さ34㎝とひときわ大きい。縄文時代後期のもので二千年前頃のものと言われている。平成26年に国宝指定。

気温が温暖化し一万二千年前くらいには土器を用いた定住生活を始めたと考えられている。縄文土器と呼ばれる文化は北海道から南西諸島に至る長い長い日本列島各地に広がり、その地域ごとに発展したという。
縄文時代の人々は湧き水のある台地の周縁部部に縦穴式住居をなどをつくって集落で生活した。住居の中央には炉があってその周辺に木の実などを蓄える貯蔵用の穴を掘った。集落の背後には森が多くあり、環状の貝塚なども発掘されることが多い。
祖先礼拝の習俗も生まれ、死者を折り曲げて葬る屈葬も見られるようになる。自然条件に左右される不安定な生活の中で、集団での統制を図るために自然現象に霊的意味合いを持たせて呪術による統治を行おうとしたのだろう。
縄文文化は数千年以上に渡り日本列島に栄えたことから日本民族の原型もこの時代に形づくられたと考えられている。

土器を用いることで人々の食生活は大きく変化する。灰汁や毒を抜くことができ、加熱することで柔らかくなるからだ。土器そのものが人類の歴史を進める画期的な道具であったことがわかっている。また集団生活を送るなかで「女性」の役割が重視され土偶などに女性的な表現が表れる。中ツ原遺跡発掘の「仮面の女神」は丹念に磨きあげられ光沢ある黒色を醸し出している。渦巻きの紋様をまとい、その表情は仮面で隠されている。まさに呪術者としての女性の姿。巫女の存在を思わせるその姿は縄文の時代の女性の地位を表しているようだ。
古代の女性祭司
縄文の首都と呼ばれる長野県八ヶ岳山麓から現れた土偶は2000年の時を超え、古代日本の様子を現在に伝えている。


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中空土偶~北の大地が伝えし暮らし

2022-03-14 21:00:34 | 歴史探訪

昭和50年北海道南茅部町から出土した中空土偶は現在北海道唯一の国宝にしてされていて、縄文文化を学ぶ上で非常に重要な資料とされている。
当時の発掘は偶然の産物で、農作業でジャガイモ畑から主婦がたまたま拾い上げて町役場で調べたところ、縄文期のものと判明している。

高さ41.5cmの土偶としては大型で内部が空洞であることから「中空土偶」と呼ばれている。また薄く精巧な作りで縄文期の特徴である文様が上半身、下半身とも入っていて、当時の呪術を伝えるものである

北海道に人々が住み始めたのは約三万年前と考えられていて、シベリア方面または朝鮮半島から来たという。旧石器時代とされ食べ物を求め、また住環境の良い場所を求めて移動するのが特徴だ。1万5千年前には縄文時代と呼ばれる狩猟採集生活が取り入れられるようになった。特に北海道から東北北部ではそうした豊かな環境がそろっていて、青森の三内丸山遺跡など進んだ生活環境であったことがわかっている。

三千年ほど前から九州方面では稲作が伝わり、弥生式土器に見られる弥生文化、弥生時代が始まっていたが、住環境にて適した北海道南部、東北北部では狩猟採集生活が続いていて、続縄文文化と呼ばれていた。
北の豊かな自然の恵みが人々の暮らしにもたらしたもの、それは
「循環と共生」であったという。
今盛んに叫ばれている「SDGs」は3000年前の北の大地ですでに実践されていたことだった。
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鎌倉殿のお父さん

2022-03-12 22:47:44 | 歴史探訪

鎌倉殿の13人。大泉洋演じる源頼朝は周囲から「すけどの」と呼ばれている。「佐殿」と書きこれは頼朝が平治の乱(1159)の際右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位にあったことに由来する。官位とは「官職」と「位階」の組み合わせ。
「右兵衛」とは役所の名前で兵衛府とい宮門の警備をするところ。右左ありもちろん左が上位。「権」とは副と同じで支える役目のこと。
「佐」とは階級を表し従五位下に相当する。従五位上までいくと天皇の住まいとなる内裏清涼殿へ上ることができ、こうした位(権威)たいして人々は畏れ多く感じていたという。

保元の乱で後白河天皇方につき、平清盛と武功をあげたのが頼朝の父であった源義朝。そもそも長男でありながら、父為義は源氏の棟梁の座を四男頼賢に譲ろうとし、袂を分かったというが、実際は父為義が京都で摂関家に従い勢力を伸ばしたの対し、義朝は東国の武士と主従関係を築いていた。まさに頼朝は父の仕事を踏襲したのである。

保元の乱において義朝は一番の武功をあげているが、実質的な戦闘の指揮官は後白河天皇の最側近であった藤原忠通。出家して信西と名乗っていた。もとはそれほど身分の高くない貴族であったが後白河天皇の乳父であったことから絶大な権力を有していた。

平清盛らと保元の乱にて勝利した源義朝であったが、敵対した父為義の助命も許されなかったという。これは清盛が信西と通じていたためであって、逆にこの事で平治の乱で敗れた義朝の子、頼朝は池禅尼の嘆願もあって命をとられなかったという。

悲運の源氏の棟梁であった源義朝。その与えられた領地は現在の栃木県。下野国の国主であったという。
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