皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

『新編武蔵風土記稿』に映る忍城後背図はどこから見た景色か②

2022-03-28 10:58:40 | 郷土散策

天保元年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』には当時の村々の様子が記述されるだけではなく、多くの挿絵が載っている。現在のSNS社会において、映像や動画が限りなく世の中に受け入れられるように、江戸期においてもより記録を詳細に伝えるために、図柄として残していたことがわかる。それだけ視覚による情報伝達は多くのことを即座に伝える手段として認知されていたのだろう。
皿尾村の項においても、挿絵として永禄二年奉納の『鰐口』が記されている。成田家の名前と銘記年が明確で、中世の工芸品が確かにあることを伝えている。
平成11年に当社の保有するこの『鰐口』が行田市有形文化財に指定されたのも、この武蔵稿の挿絵と一致していたことによるのだろう。歴史の記録は一つ二つと重なることで確かなものとなり、後世になって間違いなく伝わることの所以である。こういことが積み重なって今の日本の歴史が解明されてきたのであり、数年前から指摘されている公文書の改ざんや消失は歴史学的に見て非常に大きな問題であることを示している。要するに都合よく記録を変えたり、無くしたりしてしまえば国という最も大事な大枠がなくなってしまうのだ。

『新編武蔵風土記稿』に掲載された景観図は293点あるそうだ。
行田市を含む埼玉郡においては21点。全体では10村に一つの割合で景観図が載っている。村々の様子を直に伝えるには多くの景観図を集め掲載することで当時の関東の様子を残そうとしたのではないか。
皿尾村の項には大変優雅な『忍城後背図』掲載されている。
元々は文政8年(1825)に描かれた『増補忍名所図会』に書かれたもので当時の様子を今に伝えている。

忍城を戌亥(北西)から見下ろしたような構図で現在の私の自宅から見える景色と重なるようだ。当時すでに皿尾城の名残はなかったはずで、平坦な場所から見下ろすには、久伊豆大雷神社の鎮守の森に登って書いたような構図のように思う。
同じ景色を私は200年後の令和の御代に見ているのだ。
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「新編武蔵風土記稿」に映る忍城後背図はどこから見た景色か①

2022-03-27 21:12:18 | 郷土散策

『新編武蔵風土記稿』じは江戸時代の武蔵国、すなわち現在の埼玉県全域と東京都の大部分、神奈川県川崎市と横浜市の一部を含む地域の地誌とされます。江戸幕府の直営事業として文化三年(1810)に編纂が始まり、天保元年(1830)に完成します。
全265巻からなる『風土記稿』の大半は武蔵国内にあった約3千の村や町の地理、歴史、民俗産業などに関する記録です。
 編纂にあっては江戸幕府の役人が各地の村を訪れて、直接話を聞き、地元の古文書や遺物を探し当て、現地を歩いて史跡を見て回りそれらを踏まえて執筆されたそうです。
今では伺い知ることのできない200年以上前の郷土の姿をこの記録から読み取ることができます。
私の住む皿尾村についても記述があり、先述の通り久伊豆雷電神社の稿についてはむしろ当社に残る延宝元年縁起をもとにして書かれたと考えられます。
なぜ新編武蔵風土記稿は江戸期後半になって編纂されたのか。
理由の一つには関ケ原以降国内の戦がなくなり、太平の世が継続したことが挙げられます。幕府創設200年はもちろん、幕政の順調な時期が多く、東照大権現の威光をもとに、長きにわたる徳川の世の体制が確立した時期でした。
一方江戸の文化も栄えた元禄以降、宝永4年(1707)の富士山噴火、天明三年(1783)浅間山噴火など天変地異に加え、飢饉や一揆も起こる中、幕府は直轄領の多い関東で地誌を編纂し、領地の再検地を図りながら、石高を増やそうと考えていたようです。
幕府のために編纂された『武蔵稿』は当時それほど多くの人に読まれたものではなかったといいます(公儀の記録であるから)
しかし200年の時を超え、現在に至っては当時の関東の様子を伝える大変貴重な資料となっているのです。
文書や記録は時を経てその重みを増すものです。歴史がまさしくそう教えてくれています。電子社会、インターネット中心の現在において私たちに諭しているように思えて仕方ありません。
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皿尾煉瓦樋門群~堂前堰~

2022-03-21 21:24:31 | 郷土散策

私の住む行田市皿尾は明治22年まで皿尾村であった。皿尾の歴史は古く、「埼玉の地名」によれば古墳時代の集落跡があったとされている。すぐ西側に小敷田遺跡があり、かつて埼玉県内で最も早く稲作が行われたとされる地域で、水の恵みを受けていたことが伺われる。
一方「皿尾」という珍しい地名の意味を考えると「尾」とは「尾根」などど表現するように山などの高いところから緩やかにのびて平らになった場所を指すそうだ。
また「皿」とは「埼玉県地名誌」によれば「乾いたところがない製陶の地」を意味するという。したがって「皿尾」とは陶器を製造した平坦な場所を指していると考えられるそうだ。

この地が製陶にに適した土地であったことは「武蔵国郡村誌」の皿尾村の稿に「地味、薄黒埴を帯ぶ」と記されていることから埴とは粘土、赤土の呼び名で古代土器を作るうえで欠くことのできないものともかんがえられる。

しかしながらそうした土に恵まれながら、地形的に皿尾地区は忍沼に隣接することで水位が高く、排水に苦労したことで知られている。要するに水を引くにも苦労し、排水にも悩まされた苦難の地であったのだろう。今でこそ重機をもってすれば広域の治水が瞬く間に整備されるのとは時代が違うのである。特に江戸期まではそうした治水に関する技術は自然の形を少しずつ変えることで時間をかけて整備してきた。
明治となって深谷市で日本煉瓦の生産が始まると、それを利用した治水灌漑施設工事が進められる。所謂殖産興業の流れだ。明治34年(1901)煉瓦造りの堰や樋菅が建造されている。行田市には20基の煉瓦水門が建設されていて、これは埼玉県内でも最も多い。その先鞭をつけたのが皿尾であったという。
当家の菩提寺でもある皿尾泉蔵院の西端に建つのが「堂前堰」
他に上流から「外張堰」「松原堰」そしてこの「堂前堰」と三基の水門があった。(松原と堂前が現存している)

深谷の日本煉瓦を使用した「イギリス積」であるとされ、目地幅が均一で仕上げのモルタル塗りも正確であるとされる。
石門の形が神社の鳥居のような形が特徴的である。
時代が下って太平洋戦争後皿尾地区は酪農や共同生活作業による生活改善の先進地として、関東一円にその名を知られる集落となった。
享保六年の記録では皿尾村の名主は竹内家であり、明治維新までその地位を守ったがその後村を離れている。現在も泉蔵院北側一角に竹内家の大きな墓碑が残っており、天保期に俳人として名を馳せた竹内路白の句が刻まれている
すずしさや きままに旅は ゆき次第
         路白
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/45/12063cb2d65cf0b184d149c2c30ab2e3.jpg" border="0"社家である当家の墓もここに眠る。小さいながらお地蔵さまも残っていて、石碑に刻まれる元号は宝永七年(1711)
皿尾村の歴史の多くはこの地に残っている。
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のびゆく星宮小学校

2022-03-19 22:35:58 | 郷土散策

明日私の母校行田市立星宮小学校は閉校式をむかえます。明治19年池上学校と中里学校を統合し「開新学校」開設から136年。
行田市の北西部豊かな自然と広大な農地に恵まれ、忍の行田の穀倉地帯の人々が通うのどかでのびのびとした教育環境であったことは間違いありません。六年前開校130周年記念事業も盛大に行われ、地域の中心として益々子供たちと共に発展することを願いながら閉校という現実を迎えてしまったことに忸怩たる思いはぬぐえません。

もっとできることはなかったのか、働きかけるべきこともできたのではないか。そう思うことも多々あります。
人口減少、過疎化、高齢化。すべて三十年前からわかっていたことです。実際に小規模学校へ通う子供たちにとって最善となる施策を講じることとももちろん大事なことですが、私たち大人ができることはあったはずです。
今私にできること。それは星宮小学校の歴史を語り継ぐこと。未来に向かってこの小学校閉校を糧とし、地域のあり方を考えるきっかけとすることだと思います。なぜなら学校は地域を映す鏡であるからです。神社も同じです。何もしなければなくなる定め。もう私に残された時間は少ないと思います。

自ら学ぶ。そして行動する。一人でも多くの人のために。自分自身が通った6年。自分の子供たちが足かけ9年間。15年間歌い続けた校歌を新たに歌う子供たちがいなくなるという現実を受け入れつつ、大事な校歌を歌い継いでいきたいと思います。

行田市立星宮小学校校歌
朝もや晴れて緑の大地
雲間遥かに秩父の峰が
きょうもみんなの夢を呼ぶ
明るく学ぼう心をあわせ
のびゆく星宮小学校

五つの森に歴史の誇り
実り豊かな黄金の波が
今もみんなの夢を呼ぶ
仲良く学ぼう力を合わせ
のびゆく星宮小学校

夕べの窓に未来の誓い
道を教える希望の星が
明日もみんなの夢を呼ぶ
正しく学ぼう肩組み合わせ
のびゆく星宮小学校
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落合門樋

2021-04-29 22:23:24 | 郷土散策

旧騎西町外田ケ谷は騎西町の西端に位置し、行田市関根、加須市阿良川、川里町(鴻巣市)北根と接する市境の村であり、この落合門樋か北へ500Mの地点には三国橋という名の橋もかかるという。こうした行政区画の端区域は昔の面影を残す史跡が多く残り、開発の遅れよりも歴史の発見がありとても興味深い。

大正期までは星川落合橋付近には落合橋という見沼通船会社がおかれていたという。

「落合」とはそもそも川と川との合流地点をいうそうだ。落合門樋は見沼大用水(星川)とそれに合流する悪水路(古川落)との合流地点であった。古川落の上流は会の川の改修した跡であり昭和初期に大改修され彦八郎用水へと変貌している

明治三十六年(1903)に建造された落合門樋は大雨の際に見沼大用水から古川落へと水の逆流を防ぐために作られたという。こうした治水に悩む区域において、明治期に煉瓦水門を開設した歴史は私の住む皿尾村も同じである(松原堰・堂前堰)

昭和二十年代まで大田村(行田市小針、関根、真名板)と加須市志多見村の境には阿良川堤と呼ばれる堤防が存在し、古川落から水があふれると、太田村一帯に滞留することとなった。

そこで木造の樋門を煉瓦造りへと改良し外田ケ谷村がその建設を請け負ったそうだ。県の技術指導を受け、県税の補助も受けている。

当時の建設を受け持った技術師に野村武という人物がおり、野村氏は北埼玉成田村(熊谷市)で建設した杣殿分水堰も請け負っている。

日露戦争前年にこうした北埼玉においても、土地開発改良工事が盛んで、所謂古き良き時代であったことが伺える。深谷の日本煉瓦製造が稼働したのが明治20年(1887年)のこと。

土地を開き、作を広げ、多くの人々が豊かな明日へと夢を持ったころだろう。

褐色の赤レンガの積み跡が、激動の昭和から平成令和へと続く時の重さを今に伝えている。

 

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