天保元年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』には当時の村々の様子が記述されるだけではなく、多くの挿絵が載っている。現在のSNS社会において、映像や動画が限りなく世の中に受け入れられるように、江戸期においてもより記録を詳細に伝えるために、図柄として残していたことがわかる。それだけ視覚による情報伝達は多くのことを即座に伝える手段として認知されていたのだろう。
皿尾村の項においても、挿絵として永禄二年奉納の『鰐口』が記されている。成田家の名前と銘記年が明確で、中世の工芸品が確かにあることを伝えている。
平成11年に当社の保有するこの『鰐口』が行田市有形文化財に指定されたのも、この武蔵稿の挿絵と一致していたことによるのだろう。歴史の記録は一つ二つと重なることで確かなものとなり、後世になって間違いなく伝わることの所以である。こういことが積み重なって今の日本の歴史が解明されてきたのであり、数年前から指摘されている公文書の改ざんや消失は歴史学的に見て非常に大きな問題であることを示している。要するに都合よく記録を変えたり、無くしたりしてしまえば国という最も大事な大枠がなくなってしまうのだ。
『新編武蔵風土記稿』に掲載された景観図は293点あるそうだ。
行田市を含む埼玉郡においては21点。全体では10村に一つの割合で景観図が載っている。村々の様子を直に伝えるには多くの景観図を集め掲載することで当時の関東の様子を残そうとしたのではないか。
皿尾村の項には大変優雅な『忍城後背図』掲載されている。
元々は文政8年(1825)に描かれた『増補忍名所図会』に書かれたもので当時の様子を今に伝えている。
忍城を戌亥(北西)から見下ろしたような構図で現在の私の自宅から見える景色と重なるようだ。当時すでに皿尾城の名残はなかったはずで、平坦な場所から見下ろすには、久伊豆大雷神社の鎮守の森に登って書いたような構図のように思う。
同じ景色を私は200年後の令和の御代に見ているのだ。