皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

上池守 天神社 芭蕉句碑

2021-04-05 21:18:29 | 郷土散策

名月や 池をめぐりて 夜もすがら

   ばせを

 上池守天神社境内に建つ芭蕉句碑。

碑材は緑泥片岩の自然石で高さ1m91cm、幅51cm、厚さ70cm。先端が尖っており、建立年月日、建立者名はなどは不明である。

7箇所存在する行田市内の芭蕉句碑のうちの一つ。かつてこの地で俳句に精進し、正風の隆盛を示したものがいることの証とされる。

季語は名月で季は秋。中秋の名月の晩に月の映る池のほとりを歩き回って、一晩中月見をすると歌ったもの。夜もすがらに美しい月に出会えた喜びを記している。

 桜の季節に芭蕉の秋の名月の歌を見ていると、季節感が反対に感じてしまうが、昨日地元の後輩の誕生日で、彼の家のすぐそばにある天神社に参拝し、桜の様子を見に行った際目に入った句碑であった。

桜は散り始めているが、平成6年伊勢遷宮の際講中記念に植樹された花水木が綺麗に咲いている。

利根川荒川の沖積平野に当たるこの池守地区は、水利に恵まれ早くから開かれた場所であったという。

本殿に安置される天神座像は、雨乞いの際社殿から運び出し縄に結び付け神社裏の川に投げ込んだという。

雨を司る天神の像を川に投げ込みその怒りを買うことで雨を乞う神事であろう。

社殿脇に建つ宇賀神社は昭和7年の造粒で、この年は全国的に大干ばつの年であったそうだ。

今では水の姿はないが池の堀として残っている。また神社の湧水で干ばつを逃れたことで、神による奉斎として崇め、境内には元荒川土地改良区用水機が設けられるようになった。

水と杜とともに生きてきたこの地の人々に芭蕉の句が建てられたのはいつだったのか。

郷土の歴史について知る身近な旅を始めたいと思っている。

行田市立星宮小学校130周年記念事業 星宮かるたより

上池の 天神社には 芭蕉の句

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杣殿分水堰(そまどのぶんすいせき)

2020-05-23 22:20:55 | 郷土散策

 行田市持田から熊谷市に抜ける旧道は、忍川に沿って西へと走る道であるが、剣神社を過ぎ菅谷の八幡様を過ぎると昔ながらの田園風景が広がる。小敷田村から上之村に入る手前には、忍川の流れの起点となる杣殿分水堰が建っている。

 

杣殿とは埼玉郡上之村の小字名で明治36年(1903)に県税の補助を受け成田村が建設したものだという。

分水堰のある持田は行田市の西端に位置し熊谷市上之、戸出と隣接するが、建設当時の忍川はここで南北に分岐していたという。

『新編埼玉県史』によれば元荒川流域は水量が元来少なく、そのため用水が不足する一方、星川、忍川などの支流は水位が低かったため支流の屈曲が甚だしく、支流の連結する見沼代用水は水位が高く、水量も多かったため行田市内における湛水地が多くみられたという。二大河川(荒川、利根川)に挟まれた忍の行田の治水の歴史をよく物語っている。

 

現在も稼働するこの分水堰であるが堰の南側の水路は既にほとんど使われることなくその堤防跡だけが残っている。

そもそも現在では行田市内を東西に横断するように流れる忍川本流であるが、かつては市街の南側を流れて佐間地区に抜け見沼代用水へと合流していたという。大正から昭和初期にかけて県営元荒川筋用排水改良事業により、小敷田村から市街北側までの新水路が開削され現在の流れになったという。

平成となってから護岸工事が進み近年遊歩道も整備され散歩する市民も増えた忍川本流であるが、その起点となっているのは明治期に建設されたここ杣殿分水堰である。

 

 

 

 

 

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古代蓮の里と行田の田んぼアート

2019-08-20 23:36:35 | 郷土散策

行田市小針の古代蓮の里を訪れました。目的は田んぼアートの見学です。

行田の古代蓮は昭和48年(1973)公共施設建設工事の際、蓮の種子が自然発芽して開花したもので、出土した地層の遺物や木辺から1400年から3000年前のものと推定され、『古代蓮』と呼ばれるようになりました。平成4年から公園の整備が始まり平成13年に『古代蓮会館』が開館しています。

高校生の頃この前の道を通ていましたが私が高校を卒業したのは平成3年の三月のことで、当時はまだ何もありませんでした。あったのは現在も稼働しているごみ焼却場『小針クリーンセンター』。田んぼ道を延々と自転車をこぎながら、すれ違う車も少なくわき見をした同級生のM君が植えたばかりの田んぼの中に自転車で転げ落ちたことを昨日のことのように覚えています。

高校卒業し三十年近く立ち、新元号を迎えこの地にギネス認定された田んぼアートを見るとは夢にも思いませんでした。

田んぼアートは水田をキャンバスとして色彩の異なる複数の稲を植え文字や絵柄を表現する取り組みで、地域振興の一環で全国各地に見られます。ここ行田市の田んぼアートは2008年に始まり、2015年にはギネス世界記録に認定されています。

使用されている稲は地元特産の彩のかがやき、キヌヒカリを中心にべにあそび、あかねあそび、黄大黒といった8種の品種を織り交ぜて、田んぼに巨大な絵図を描き出します。

今年のテーマはラグビーワールドカップ日本代表です。今秋開幕のラグビーワールドカップに因んだ作品で、現在TBSのドラマでも陸王に続いて池井戸潤さん原作のノーサイドゲームが放映されるなど盛り上がっています。

昭和58年放映の『スクールウォーズ』。山下真司主演の高校ラグビーの熱血ドラマを夢中で見ていたのは小学5年生の時でした。当時から熊谷、行田はラグビーが非常に盛んで、熊谷工業、行田工業といった名門校が花園で活躍したこともあり、小中学校ではラグビーをほとんどの生徒が経験していました。キャプテン翼でサッカー覚え、スクールウォーズでラグビーを知り、夢中で白球を追った野球少年でした。スラムダンクでバスケットのすばらしさを知るのは高校を卒業した頃でしょうか。今では少子化のためか、団体球技をたくさんこなすなどといったことはあまりないようですが、私が子供の時分は楽しいことは何でもできたように思います。

古代蓮会館の展望台からは、西に筑波山、北に赤城、榛名といった上州の山々、西には秩父連峰が望めます。美しい田んぼが緑の絨毯の様にひろがる様は都会の景色とは違い、まさに北武蔵の原風景と言えます。

稲刈り前にぜひ訪れてはいかがですか。

 

 

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忍の行田か行田の忍か

2019-07-10 23:53:57 | 郷土散策

今年は行田市制施行70周年。田んぼアートを始め多くの記念事業が催されているようだが、そもそも昭和24年の市制がしかれるまでは、ここ行田市は忍町と呼ばれていた。忍市ではなく行田市となったのは「忍市」では要するに語呂が悪かったせいであろう。「行田」とは「成田」が転じたものと考えられているが、元は忍町の一字(ひとあざ)に過ぎなかった。

足袋でその名を知られるようになると、駅や電燈、郵便局も皆行田と名がついたため、他所の人は当時行田は独立しているものだと思ったらしい。

「忍の行田か、行田の忍か 武州行田は足袋でもつ」と歌われて、行田の名は次第に定着していった。

忍にしても行田にしても、その読み方は珍しく、他所では「いくた」「しのぶ(しのび)」と読む方が一般的のようだ。

東京四谷三丁目はかつて四谷忍町と呼ばれていて、家康から忍城へ派遣された高木九助の所領であったことに由来する。

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忍領西端の地~八幡橋

2019-07-04 20:36:47 | 郷土散策

梅雨前線の影響もあり、九州地方においては豪雨による災害が発生し、昼夜のニュースで取り上げられている。関東においても数年前鬼怒川堤防が大雨で決壊し、ヘリで人命救助に当たっている映像が流れたことも記憶に新しい。

 徳川入城後、関東においては利根川荒川を中心に河川の治水事業が進められ、現在の河川の流れが形作られてきた。時代が変わっても雨大国日本において、治水灌漑事業は重要な社会事業の一つに変わりない。

 忍川はここ忍領行田市を横断する一級河川でその源流は利根川水系中川支流である。行田市内を中心地まで東西に横断し、酒巻用水路と合流するところで(花見橋)流れを南に変え武蔵水路と並行するように市内を今度は縦断し、鴻巣に入って元荒川と合流する。

忍川が行田に入って最初にかかる橋が、「八幡橋」であり、持田の菅谷八幡神社北側にかかっている。『吾妻鏡』の建久元年(1190)の項に源頼朝の上洛の様子が記されており、その行列の先陣は畠山重忠で後陣の名に忍三郎、忍五郎の名が出てくるという。またその同列には成田氏の一族の名も見えるという。当時において『忍氏』は将軍旗下の有力武士団であったことが窺える。

上洛に際し忍三郎は石清水八幡宮に参拝し、その御分霊を頂いてこの地に戻り、菅谷に八幡宮を創建したという。

その後忍氏は成田親泰に滅ぼされたが、直ぐに忍城の築城となり持田村の諏訪神社を城鎮守とした。

昨年忍川沿いの遊歩道が整備され、菅谷橋まで開通している。行田市西端の地で忍の名の元になった氏族が勧請した八幡神社は熊谷へと抜ける旧道と、忍川に挟まれるように立っている。

 

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