伝承いちっ子地蔵より
江戸時代この地域は大雨が降ると会の川の堤防が決壊し、田畑家々が水没しました。
村人は幾度となく堤防を築きましたが、壊され続けて困り果てていました。ある日大雨のの時突然雨が小降りになりました。その時「いち」という名の瞽女(ごぜ=目の不自由な女性芸人)娘がたっており天からのお告げを聞きました。
「わが身を川に投げ入れれば荒れ狂う川を鎮められる」
いちはその声をきき「村人の難儀が救えるなら喜んで引き受けましょう」と言って川の流れに身投げしました。すると荒れ狂うていた流れは収まりました。村人は娘いちに感謝し決壊口近くに地蔵尊を建立し、いちの霊を慰めるため末永く供養を続けました。
同様の言い伝えが大越や礼羽の川圦神社にも残っています。
羽生の郷土史家高鳥邦仁先生によればこうした漂流人柱伝承は各地に残っており、この不動岡のいちの伝承が異なる点は、人柱となるものが「瞽女」であること、いちという名がしっかりと伝えられる点だという。多くの人柱伝承では身投げする(生贄となる)ものは巡礼の母子や修験者が多く、その名がしっかり伝わることは少ないという。
瞽女とは何か。当時の流行歌や物語を歌いながら渡世する盲目の女性を指す。娯楽の少なかった昔にそうした人々は多くの人々の癒しや楽しみとなり、各地で迎えられたことが伝えられる。
いちという女性が旅の女なのか、はたまた不動岡に定住するものだったかはわからない。但し、いちっこ地蔵には「先祖代々」との銘が刻まれていて寛政八年の年号も見える。但しその前後も含め、当地では大水があった記録は見えない。
かつて不動岡村にいた瞽女は巫女を兼ねた女性だったと高鳥氏は推察している。ゆえに「いち」と呼ばれた。(華でも桃でもなかった)村の行く末を案じ、呪術的な教えを施し、いつしか伝説となっていったのではないか。先祖供養の地蔵が立ったのは事実であり今に残る現実である。そこに呪術的な要素を絡めてある一人の巫女の存在が言い伝えられても不思議ではない。
いちっこ地蔵が伝えるのは人柱としての物語ではなく、大水が起こったことの事実であるのだと思う。
時と共に村は豊かに、穏やかになる一方、万が一の記憶は薄れ、物語としての女性像だけが独り歩きする。
現地の地蔵尊は三体で、いちっこと記されるのは向かって左の単身像である。しかし高鳥氏によれば本当のいちは右端の双身の像だという。
やはり他の人柱伝承のように人柱となったのはいちと呼ばれる盲目の女性であっても、母娘の巡礼者であったともとれる。
いずれにせよ伝えるべきはこの地で水の恵みと共にその流れに翻弄され命まで落とした人々の暮らしがあったことに他ならない。
多くの卒業生にとって足を踏み入れることのない不動岡高校の裏のひと区画に今もいちっ子地蔵は立っている。
私は伝えたい。この地の人々が生き抜いた歴史を。未来に向けてそれぞれが果たす役割をもって生きていることを。
103期卒業生の一人として。