皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

加須市不動岡 いちっ子地蔵②

2022-02-21 22:01:40 | 史跡をめぐり

伝承いちっ子地蔵より
江戸時代この地域は大雨が降ると会の川の堤防が決壊し、田畑家々が水没しました。
村人は幾度となく堤防を築きましたが、壊され続けて困り果てていました。ある日大雨のの時突然雨が小降りになりました。その時「いち」という名の瞽女(ごぜ=目の不自由な女性芸人)娘がたっており天からのお告げを聞きました。
「わが身を川に投げ入れれば荒れ狂う川を鎮められる」
いちはその声をきき「村人の難儀が救えるなら喜んで引き受けましょう」と言って川の流れに身投げしました。すると荒れ狂うていた流れは収まりました。村人は娘いちに感謝し決壊口近くに地蔵尊を建立し、いちの霊を慰めるため末永く供養を続けました。
同様の言い伝えが大越や礼羽の川圦神社にも残っています。
羽生の郷土史家高鳥邦仁先生によればこうした漂流人柱伝承は各地に残っており、この不動岡のいちの伝承が異なる点は、人柱となるものが「瞽女」であること、いちという名がしっかりと伝えられる点だという。多くの人柱伝承では身投げする(生贄となる)ものは巡礼の母子や修験者が多く、その名がしっかり伝わることは少ないという。

瞽女とは何か。当時の流行歌や物語を歌いながら渡世する盲目の女性を指す。娯楽の少なかった昔にそうした人々は多くの人々の癒しや楽しみとなり、各地で迎えられたことが伝えられる。
いちという女性が旅の女なのか、はたまた不動岡に定住するものだったかはわからない。但し、いちっこ地蔵には「先祖代々」との銘が刻まれていて寛政八年の年号も見える。但しその前後も含め、当地では大水があった記録は見えない。

かつて不動岡村にいた瞽女は巫女を兼ねた女性だったと高鳥氏は推察している。ゆえに「いち」と呼ばれた。(華でも桃でもなかった)村の行く末を案じ、呪術的な教えを施し、いつしか伝説となっていったのではないか。先祖供養の地蔵が立ったのは事実であり今に残る現実である。そこに呪術的な要素を絡めてある一人の巫女の存在が言い伝えられても不思議ではない。
いちっこ地蔵が伝えるのは人柱としての物語ではなく、大水が起こったことの事実であるのだと思う。
時と共に村は豊かに、穏やかになる一方、万が一の記憶は薄れ、物語としての女性像だけが独り歩きする。

現地の地蔵尊は三体で、いちっこと記されるのは向かって左の単身像である。しかし高鳥氏によれば本当のいちは右端の双身の像だという。
やはり他の人柱伝承のように人柱となったのはいちと呼ばれる盲目の女性であっても、母娘の巡礼者であったともとれる。

いずれにせよ伝えるべきはこの地で水の恵みと共にその流れに翻弄され命まで落とした人々の暮らしがあったことに他ならない。

多くの卒業生にとって足を踏み入れることのない不動岡高校の裏のひと区画に今もいちっ子地蔵は立っている。
私は伝えたい。この地の人々が生き抜いた歴史を。未来に向けてそれぞれが果たす役割をもって生きていることを。
103期卒業生の一人として。
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加須市不動岡 いちっ子地蔵①

2022-02-21 20:52:53 | 史跡をめぐり

埼玉県下最古の歴史を誇る県立不動岡高校。旧制埼玉中学の創立以来幾多の苦難を乗り越え多くの卒業生を輩出する県東部の伝統校の裏にはひっそりとお地蔵さまが立っている。石碑としては三体あって、向かって左から単身、中央に六連、右に双身の体で佇む。

そもそも不動岡という地目の由来は、高校の西側に鎮座する總願寺の境内に建つ不動堂に由来する。その歴史は古く時に長暦三年(1039年)の洪水によって流れ着いた不動明王を拾い上げ、安置したことによるもだという。

ところがそれだけにはとどまらず、このお不動様、かつてはほかの地で安置されていたものが盗まれて、それが洪水によりこの近辺(羽生領)に流れ着いたものであったという。しかも初めにこの辺りで拾い上げられた場所は、今の不動岡の地から遡ること3キロほど西の場所であったという。
流れてきた不動明王を村人が拾い上げたところ、地面が揺らいだという。そう大きな地震が起きたのだった。
洪水に続いて大きな地震が起こり、村中恐れおののいた。お不動様が怒ったのに違いない。そう思い込んで拾い上げた不動明王を再び川へ流したという。その場所が現在の加須市岡古井。すなわち岡震えが転じた地名だという。
皿尾久伊豆大雷神社には岡古井からの参拝者が古くからいらした。かつて病で悩んだところ当社に祈願し治癒したことから毎年のようにお礼参りに来ていると聞いている。
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鴻巣市 中三谷遺跡

2022-01-16 18:55:11 | 史跡をめぐり

鴻巣市にある運転免許センターにはその開設時、地盤調査の際古代集落遺跡が発掘されている。「中三谷遺跡」。
毎日多くの埼玉県民がここ鴻巣を訪れているが、中庭に展示されたその集落の復元模型に関心を寄せるひとは少ない。
遺跡は縄文時代の住居跡、弥生時代の遺構、古墳時代の住居跡、当時の生活様式と時代に沿って解説展示がされている。特に古墳時代に置いては、当地に置いて約1500年前に40軒以上以上の竪穴式住居が存在し、内部にはかまどを炊いて、集団で生活したことがわかっている。また堀立柱建物跡は高床式の倉庫で食料を貯蔵したことも知られている。

また住居跡の周辺には井戸や溝跡が検出されていて、集落全体が定住するのに必要なインフラ整備を進めていたことがわかっている。

展示の解説版の一部はかなり破損が進んでおり、残念なところもあるが、免許センター解説当時(昭和62年)当時の警察本部長の言葉が記されている

当センターがこの地域の歴史と共に歩む縁とするため発掘された竪穴式住居を大地に刻まれた先人の歴史の一部として復元し、時代を越えて語りかけてくる歴史ロマンとふるさと埼玉の温もりが感じられるならば望外の幸せです。
交通安全行政の重要施設を開設する際、思いの他の歴史にふれ、多くの人に知ってもらうことは地域の治安を預かる警察のトップとして思いの他幸せです。多くの埼玉県民が毎日のように訪れる施設でその思いを知るひとは少ない。
私はその思いを受け止めたいと思う。身近なところに先人の懸命に生きた証しは存在する。そうした思いをこれからも伝えていきたいと思う。
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塙保己一生誕の地 

2022-01-13 21:50:45 | 史跡をめぐり

埼玉県本庄市児玉町保木野。塙保己一生誕の地。現在もその生家旧宅は国指定史跡として立派な佇まいをなしている。
江戸時代後半に盲目の国学者として名をなした塙保己一は埼玉の三大偉人の一人として郷土の誇りであるが、幼い頃に病気のため失明し、江戸に出て盲人一座の当道座に入門し、更には和学講談所の設立を幕府に認められ、「群書類従」の編纂という一大事業を果たしている。

延享三年(1746)武蔵国児玉郡保木野村の農家の子として生まれ、姓は荻野。幼名は寅之助と称した。
幼い頃から病弱で五歳のときに肝の病を患い、七歳で失明したという。その際両親は運気を変えるため年を二つ減じて辰のとしに生まれたとして辰之助と変えている。

宝歴七年(1757)には辰之助12歳の夏に最愛の母をも亡くしている。途方にくれながらもこの頃盲目の辰之助に文字やっ古文書を読み聞かせ我が子のように慈しんだのが生家のすぐそばにある龍清寺の住職だったとされる。
この龍清寺には龍が空に飛び上がるような形をした榧の木がたっておりその南には母が病気平癒を祈願した三日月不動が建つ。
三日月はやがて月が満月に向かってみちゆくように、足りないものを補ってくれるという信仰があるという。
尚、塙姓は盲目の当道座の師匠である雨宮検校の姓からもらってから名乗ったもので、名の保己一は故郷保木野村から付けた名だという。
世のため後のため
そう願い続けて編纂した群書類従。その偉業の礎は生まれ故郷児玉郡保木野村、現在の本庄市にあり、その目に光を失う前にみた保己一の幼い頃の山並みは今も変わることがない。
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久喜市八甫 宝泉寺池

2021-06-24 22:10:07 | 史跡をめぐり

旧鷲宮町八甫村は東鷲宮区域に広がる田園区域で、開発が進んだ鉄道沿線から離れ、古利根川の流れの跡をよく残している。八甫はかつて八つの甫船が行き交う、水上交通の村であったという。利根川の瀬替えによって今ではその流れを見ることはできないが、かつてこの地が川の流域であったことを示す大きな池が残っている。

宝永元年(1704)七月の関東大洪水にによっていくつかの洪水跡池が生まれたという。この年、六月から続いた大雨で利根川およびその測流が満水状態となり、各地で大きな被害を出したという。

 その後天明六年(1786)の大洪水においてもおおきな被害が出、ここ宝泉寺池はほぼ二百メートル四方の大池となって残っったという。なお、宝泉寺自体は廃寺となっている。

広く平地が広がる風光明媚な土地であり、遠く赤城山も望む。但し池の脇にはパチンコ遊技場もあり開発の狭間でその優美な姿を広く残しているいるとはいいがたい。

やはり鷲宮神社周辺は古くから水の浮島として名が残るように、水利に恵まれ、また治水に苦労した土地柄であることが伺える。単に居住地、商業地、農地といった土地開発の主要目だけが進められるのではなく、古くからの土地柄がわかる史跡が残ってほしいものだ。

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