皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

不動岡高校発祥の地

2020-05-22 22:01:02 | 史跡をめぐり

埼玉県立不動岡高校は県内で最も長い歴史を誇る高校として知られているが、その発祥の地を記念して小さな公園が整備されている。高校の前の道を総願寺不動尊前を通り、500mほど離れた通り沿いに目立つことなく佇んでいる。

昭和十一年創立五十周年を記念して建てられた創建の碑にはその由来が刻まれている。

また、加須市指定史跡となったのは昭和六十年一月。創立百年を迎えた年のことだった。

記念碑の撰文は國學院大學学長を務めた河野省三氏。

明治十一年(1878)三月北埼玉郡不動岡村に小学校教員養成所として第十三番中学講習校を設置

         僅か弐年にして廃止。地方の有志甚だこれを惜しむ

明治十三年(1880)四月 私立會川中学校を創設

明治十七年(1884)七月 不動岡羽生中学校と改称

明治十八年(1885)北埼玉郡立中学校と改称(成田中学を合併)

         校舎敷地設備等整う

明治十九年(1886)中学校令の改正により廃校となる

         識者ら地方教育の前途を憂慮し、互いに励みて、県下唯一の中学校建立す

明治十九年    私立埼玉英和学校 を開校

明治二十七年(1894)私立埼玉和英学校 と改称 

         文部省の認定を受ける

明治三十年(1897)私立埼玉中学校 と改称

         県下より学び来るもの多くその効果広く深くあり

明治三十七年(1904)日露戦争

          戦後国内育英事業に深刻なる打撃 地方の私学はその経営困難を極める

大正十四年(1925) 有志奔走の末土地一万坪及び金三万円を添えて県に寄付し

          四月 県立不動岡中学校 設立

          多年の宿望と幾多の辛苦に報いられ校舎を現敷地に移す

昭和十一年(1936) 有志 発祥の地記念碑を建立

 多くの若者がこの地で学び、希望を抱いて巣立っていったことだろう。その創立の理念は「質実剛健」。真面目で飾り気がなく逞しい事。その言葉の由来は明治政府による「戊申詔書」のあるという。国家発展のために明治天皇が発した詔書で「国民は仕事に励み質素を重んじ、勤勉でなければならない」という内容であったという。

 個性と自由という風潮が豊かさの下に広がった現代であるが、高等教育の目的は本来自らを律し、公に尽くすものにあったのだろう。建学の苦難の歴史がそれを物語っている。

 

 

 

 

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上尾市瓦葺 尾山台遺跡

2020-04-20 20:30:14 | 史跡をめぐり

JR東北線東大宮駅から北に1㎞ほどのところにある尾山台団地は日本住宅公団の集合住宅。埼玉千葉を結ぶ国道16号瓦葺交差点から大宮側に500m入った場所にある。高度成長期に開発された大型団地であるが、かつて古くは古墳時代の始めごろにも多くの人々が暮らしていたという。尾山台遺跡である。

昭和四十年尾山台団地の建設に伴い発掘調査が行われ、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての住居跡が約60軒見つかり大規模な集落跡であったことが判明している。当時一つの遺跡から60軒以上の住居跡がまとまって発見されたのは初めてであり、調査が進むと更に縄文期から弥生、古墳、奈良平安時代それぞれの住居跡や遺物も確認されたという。

住居の一辺は3~7mで柱穴は四か所設けられ、その中の多くに炉跡が見られる。かまどができる前の時代のことで、土器は煮炊きに使う台付き甕形土器が多い。また収穫した食料を貯蔵する跡も見つかっている。また住居跡は各時代にグループ分けすることができ、数世代に渡ってこの場所で人々が生活してきたことが分かるという。

見つかった住居のうち、約20軒からは炭化した木材が折り重なった状態で発見されている。これは火災によって住居が燃えた跡だと考えられていて、遺跡の南部に多く見つかっている。火災の原因は不明であるが同時期の住居であり、大火災によって一挙に燃えてしまったことがうかがえる。

現在団地の中ほどにある公園の一角に尾山台遺跡跡から見つかった住居跡を再現した場所がある。現在でも多くの人々がここ尾山台団地に住んでいる。古代から続く尾山台の繁栄は時代を超えて現代も集合住宅として引き継がれている。

今も昔も尾山台の地は人々が大きな集落を作り、未来の繁栄を願って暮らしているようだ。

 

 

 

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幸手権現堂 順礼の碑

2020-04-13 16:49:07 | 史跡をめぐり

幸手市権現堂堤は桜の名所として知られるが、その歴史は江戸時代天正年間に利根川の支流である権現堂川の堤防として築かれたものだという。かつては6kmに渡って約3000本の桜を誇り、大正期にはすでに桜の名所として賑わっていた。

明治九年(1876)には明治天皇が東北行幸に際に立ち寄られたことから行幸堤とも呼ばれるようになった。

権現堂川は利根川の流路変更に伴い明治の終わりには締め切られ廃川となりそのため堤防は荒れ果て植えられていた桜も戦後の混乱や薪燃料のため多くが伐採されてしまった歴史があるという。

昭和二十四年(1949)以降旧権現堂川堤防の内、中川の堤防として残ったところにソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂桜堤であるという。平成二十年(2008)には埼玉県営権現堂公園として整備されているが、その公園の中には権現堂を見守る順礼母娘の碑が建てられている。

淳和二年(1802)の大雨によって弱っていた権現堂川の堤は修復してもすぐに切れてしまうような有様であったという。

ある時堤奉行の指揮の元、村人たちは必死に堤の改修工事にあたっていたところ、夕暮れ時に巡礼の母娘が通りががった。工事の様を見た母は「こう度々堤が切れるのは龍神の祟りに違いありません。人身御供(ひとみごくう)をたてねばなりません」と口走った。すると堤奉行は「誰か人身御供になるものはおらぬか」と見渡すと皆顔を見合わせるばかりで進み出るものはいなかった。すると「人身御供を進めたものを立てよ!」という声が上がりました。

 順礼母はこの声を耳にすると「私が人柱になりましょう」と申し出ると念仏を唱えて渦巻く水の中に身を投げてしまいます。これを目にした娘もそのあとを追ったといいます。

するとそこから水が引き、難工事だったものが無事に完成することとなったといいます。

昭和十一年に建てられたというこの巡礼の碑が伝えようとしたものはなんだったのでしょうか。

利根川流域には治水を廻る人柱伝承が多く残っています。大利根町鷲神社、加須市外野川圦神社など流域の神社にはその霊を慰めるために神社が勧請されたと伝わるところも数多くあります。

個人の尊厳よりも、共同体としての存続が優先された時代。人柱とは神に対する最上級の供え物であると考えられ、人の命を捧げてまで災難を沈めようとした当時の人々の考え方歴史を伝えようとしたことが分かります。

戦後現在の憲法ができ個人の尊厳が守られてきた時代にあっては考えられないことですが、翻って現在の新型ウィルスの蔓延が止まらない時世においては学ぶべき事象のように思います。高度成長期以降生まれ育ったた私たちの世代は、有事に対する立ち位置がわからない。覚悟が足りないように思います。だから上からの支持を待っている。保証がないと言い訳をする。命令に従うことでしか先行きを見渡せない。命令を出す側の方も、要請という名で人任せにしている。名ばかり緊急事態。そんな気がします。

 

桜の季節は儚くも過ぎ去りました。疫病の収束を祈りながら自身の生き方を顧み、できることをしていきたいと思います。

 

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日本聖公会 川越キリスト教会

2020-03-10 22:46:58 | 史跡をめぐり

聖公会はイギリス国教会を母体とするプロテスタント教派であるが、儀式や典礼など伝統行事を尊重する点に於いてローマカトリック教会に近く、キリスト教二大潮流を結ぶ役割を持つことから『ブリッヂチャーチ(橋渡しの教会)』とも呼ばれている。日本における関係機関としては立教大学や聖路加国際病院などが知られていて、福祉事業の分野においても広く社会いに貢献してきたという。世界中の信徒はプロテスタント最大の7千万人を数える。

教会のある松江町は唐の国松江に由来し、時の鐘から一区画離れた距離で、その建物のモダンさが際立っている。

川越教会の始まりは明治11年(1878)に横山錦柵、田井正一の両氏によって伝道活動が始まっている。明治22年(1889)には旧礼拝堂が建てられるが、明治26年(1893)の川越大火によって焼失。現在の場所に礼拝堂が建設されたのは大正10年(1921)のこと。今日見る煉瓦造りの聖堂としてよみがえっている。

祭壇を始め礼拝堂の内部はキリスト教伝統の建築設計になっており、堂内全般がノアの箱舟をイメージした構造になっている。この建物そのものが2001年国の登録有形文化財の指定を受けている。

総パイプ数347本を誇るパイプオルガンは1996年に奉献され、礼拝や儀礼に演奏されるという。

中世から近世にかけての宣教師の役割は大きく2つ。キリスト教の布教活動と、植民地化への布石、情報収集とされる。日本史においては徳川幕府の鎖国政策により、他国ほどの影響を受けなかったが、世界史においては先鋭隊として現地の情報を本国に送り植民地化へ大いにその役割を果たしたという。

史実は史実として学ぶ一方、現在の教会における社会奉仕活動や文化的活動は、真の多様性に根付いた意味ある活動の様に感じた。少なくとも非常に観光化した川越の町を歩きながらそう感じていた。観光化へ偏重しすぎた宗教施設は経済的に潤ったとしてもいづれその役割を失っていくだろう。

寺院や教会、神社それぞれが本来の姿をまず大事に受け継いでいくべきだと思う。

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幸手宿 一里塚跡

2020-02-18 23:16:08 | 史跡をめぐり

『風土記稿』によると「幸手宿は田宮庄と唱え、古くは田宮町と号す既に正保二年(1645)国図等田宮町と記し薩手と傍記す」とある。幸手の地名は一説にアイヌ語の「乾いた原野」とあるが詳しくはわからないという。仲町、荒宿、右馬之助町、久喜町、牛村を合わせて「田宮の町」と呼び幸手と通称していたという。

 一方で日光街道整備前から幸手は利根川水系による河川船運と鎌倉街道の人の往来で交通の要所として栄えていた。中世においては古河公方の重臣幸手一色氏と縁が深く、軍事的にも重要な場所であった。

 慶長九年(1604)徳川家康により五街道が整備され、主要街道には一里塚が築かれる。日本橋を起点として一里(4km)ごとに五間(9m)の四方の塚であったという。また塚には榎を植えて目印にしていた。榎は根が深く広がり塚が崩れることを防いでいた。

一里塚は重要な路線標識で荷役人の賃金計算の元になったという。戦国乱世から泰平の世に移り変わるうえで、戦支度よりも経済優先の政策に変化しているのだろう。

幸手宿は江戸期には本陣、脇本陣に加え旅籠27軒を抱える日光街道三番目の規模を誇り、将軍家による日光東照宮参拝の道である日光御成道との結節点に当たり、宿場町として大いに栄えたという。

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