行田から羽生インター前を通って、加須市大越を抜け、利根川を渡る手前が旧大利根町になります。延々と車を走らせながら、日々古河までの道の途中、たくさんの神社を目にします。大利根町砂原はその名の通り、利根川の流れが運んだ砂地を開き、村が作られた場所です。鷲神社の裏手には弁天様が池に囲まれるように建っています。このあたりが旧堤になると伝えられています。
社記によれば、万治元年(1658)の創立とされ、鷲宮神社と富士浅間神社の分霊を祀ったとされています。ご祭神は天穂日命と木花開耶姫命。
関東最古の古社とされる鷲宮神社は社伝に『浮島明神』の名が伝わり、水運に関する地域のつながりがあります。本殿には金幣と木像が納められていて、鷲神社には寄せ木造りの鷲明神座像があるそうです。
拝殿前には『力石』が納められています。
江戸時代から明治にかけ『力石』を使った力試しが各地で行われました。力石を持ち上げることを、力持ち、力試しと呼んで競ったり、また成人への通過儀礼としたようです。娯楽がなかったころの村のイベントだったのでしょうか。滑らかな石は持ち上げにくく、怪我をしにくい特徴がありました。
水干に悩まされてきたこの地には、人柱の伝説が残っています。
延享二年(1745)降り続く雨に堤が決壊。田畑に水が流れ込みました。村人は濁流の激しさになすすべもなく立ちすくみ、誰からともなく人柱をささげるとの声が上がります。選ばれたのは巡礼の娘でした。すると見る間に水は引き元の流れに戻ったといいます。その時水面から出てきたのは白い蛇でした。
村人は口々に巡礼の娘が蛇に姿を変えたと思いました。その後の祟りを恐れ弁財天に祀り、毎月二十一日に供養を続けたと伝えられています。
人柱の言い伝えは各地に残るといわれます。人身御共の行為は、神に対する最上級の奉仕だと考えられてきたのでしょう。古事記における八岐大蛇神話に通じる考え方です。
多くの白蛇の絵馬や鶏卵が奉納されていました。願いをかなえるのに何かを犠牲にする。それこそ命を懸けて。そういう時代があったことが感じ取れました。
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