扇状地末端で水が湧き出る場所を「おみ」と呼びそうで、周辺には「谷郷」や「若小玉」といった水に由来する地名が並ぶ。小見といえば真言宗真観寺が有名で、当社を「鎮守さん」真観寺を「観音さん」と呼び参拝するときは必ず両寺社にお参りするのが習わしだという。
当社は旧小見村の鎮守であり幕政期は修験専蔵院が別当を務めた。往時「久伊豆社」と号し社号額に「正一位久伊豆社」とあったことから、江戸期には吉田家からの宣旨を有していたことがわかる。
忍城成田家は久伊豆神社を守護として祀り領内各所に勧請している。成田家の出生地である上之、忍城に入場する前に居を構えた皿尾、忍城の鬼門口である長野、裏鬼門に当たる持田の大宮口、岩槻からの守りを固めた野、羽生領との境を接する真名板、そしてここ小見である。
日光脇街道に近く、舘林方面からの守りを固める意図があったのだろう。現に天正十八年豊臣軍石田三成の忍城攻めに当たっては、三成本陣が舘林から丸墓山に至るまでに周辺を通って、寺社を焼き討ちした記述が残っている。
明治六年に村社となり、近隣の諏訪神社天神社等を合祀している。御祭神は大己貴命・事代主命であり、末社の八坂神社の天王様の祭りには獅子頭をもって氏子区内を練り歩く。
真観寺の北側を守るように建つ社殿はまさに小見地区の御鎮守様そのものであり、時代が変わってもなお農村地域としての風習をのこしつつ、氏子に親しまれているようだ。
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