皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

荒川久下堤決壊跡碑

2019-10-21 22:44:43 | 史跡をめぐり

 令和元年(2019)10月19日関東から東北地方を襲った台風19号は各地に甚大な被害を出し、多くの犠牲者を生みました。今回の災害に際し亡くなられた方々に哀悼の意を捧げるとともに、現在尚避難されている方を始め自宅等被害を被った多くの方にお見舞いを申し上げます。

 ここ北埼玉においても荒川、利根川など主要大河川が危険水位を超え、19日当日は避難勧告から、避難命令が発令され、各地の小中学校などが避難所として開設されました。高度成長期に生まれ、戦後の混乱を知らない世代ですので、この地で生まれ育った中で自然災害にて最寄りの学校が避難所として開設されたのは初めてのことでした。

普段自分が利根川荒川の河川に囲まれた行田の地で暮らしていることは、歴史を学ぶ上でも大事なことだとは認識しておりましたが、こうした自然の猛威の前で人の暮らしがいかにもろいものであるのかを実感します。一週間が経過し、実際に荒川の堤を自分の目で見に行ってみました。熊谷市久下の荒川左岸には、昭和22年(1947)のカスリーン台風の際決壊した場所にその歴史を伝える石碑が建っています。

昭和22年9月15日カスリーン台風による洪水でここ熊谷市久下先にて荒川の水が堤防を越え決壊します。その濁流は下流の鴻巣市で決壊した水と相まってはるか東京まで達していました。いたるところで堤防の決壊、崩落が見られ多数の死者行方不明者を出しました。また家屋の流出、倒壊、浸水など付近一帯に甚大な被害を与えます。

カスリーン台風についてはここ荒川よりもむしろ利根川の流域の方が被害を拡大させています。翌日16日未明に埼玉県北埼玉郡東村(現在の加須市大利根区域)で利根川の堤防が決壊してしまいます。この場所は江戸期に人工的に開削された地点で新川通と呼ばれる直線的な流れであったため、比較的当時は洪水にたいして楽観視されていた部分があったといいます。

 しかし実際には上流の遊水地が当時の開発で消滅し、流れが新川通に集中し、下流で渡良瀬川と合流する構造的な問題を抱えていたといいます。濁流は南にむかい、栗橋、鷲宮、幸手、久喜と埼玉県東部の町を次々にのみ込んでいきました。当時は決壊した水の流れる先が不明であったため、各地で避難が錯綜し大混乱であったといいます。

 東京都まで達した濁流は葛飾区と三郷市の境にある小合溜井とその桜堤によって堰き止められます。これが決壊すれば東京葛飾区は壊滅的被害を被ると判断した東京都知事は埼玉、千葉県知事と協議の上、江戸川右岸堤を破壊し江戸川へと水を逃がすことに決定。しかし強固な堤はなかなか破壊できず、そうこうしているうちに小合溜井の桜堤が決壊。江戸川区小岩付近まで水没してしまったといいいます。

今回の台風19号においても長野県、福島県等で甚大な被害が出ており、また県内においては東松山にて多くの床上浸水による家屋の被害が報道されています。ダムの有効性を報じる一方、遊水地、地下貯水池の役割などにも言及されています。

土木技術が進化しスーパー堤防といった呼称も用いられる現在においても、今回の台風で河川の氾濫をすべて防ぐことができませんでした。限られた予算のの制約において有効な治水のを整備するには、過去の歴史に学ぶところは多いと思います。水をためる、堰き止める、一方で万が一の際には広く水を逃がす。こうした発想が渡良瀬遊水地を作り、そのもとになったモデルが行田市(忍藩)の中條堤であったといいます。

 歴史は繰り返す

 賢者は歴史に学ぶ

 こうした言葉が更に生かされるべき自然状況を迎えているように思います。

 

 

 

 

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熊谷市 久下神社

2019-10-21 20:17:33 | 神社と歴史

 熊谷市南西部、荒川土手に沿って集落を成す久下地区。行田駅から近く、近年では医療機関もまとまって立地し、市境を超えて行き来することも多い。「久下」の地名についてはいくつか説があり、律令期に郡司が置かれ、その家から「郡家」こおりのみやけ、ぐうけ、くげと変化した説や、「崩漬」(くずしづけ⇒くけ)即ち荒川の堤から水が出て決壊したことから名づけられた説などがある。

神社勧請の由来は古く鎌倉時代前まで遡る。『吾妻鏡』建久三年(1192)の条に「武蔵国熊谷久下境相論事也」として将軍源頼朝の前において、武将熊谷直実と、その一族である久下直光が領地の境界争いをしたことが記されている。当地はその久下直光の在所で、当時三嶋神社を深く崇敬して鎮守として領地内に二つの三島社を創建したという。

 中山道近くにあったものは内三島、荒川の近くにあったものを外三島として祀り、現在当地に残るのは内三島の方だという。寛永六年(1639)伊奈備前守忠治は久下新川先から小八林至る新しい川を開削し、この地で新川河岸が開かれると、江戸との廻船が盛んとなり大いに栄えた。当時は忍藩の領地であり藩の財政に大きく貢献する河岸は重要視され江戸との距離も適当であったため、堤の中に多くの人々が住むようになった。明治となって新川村が誕生し、外三島社は新川村の村社として祀られるようになった。一方内三島の方も中山道に沿って栄えた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり明治四三年に村内の無各社を合祀して社名も久下神社と改めている。

 

時代が進んで新川村が度重なる水害で人が住まなくなっても、外三島社はその鳥居だけは姿を残したという。実際に現在の荒川堤のすぐ脇、行田市との境に建つ集合住宅(マンション)脇には現在も其の鳥居の姿を見ることができる。治水や土地開発が進んで、村そのものがなくなってもの神社の一部が残っているのだ。鳥居の向きも南向きではなく当時の村の様子を表している。

久下神社と改めた前の三島社の扁額も境内に残っている。

鎌倉時代が始まる際において多くの東国武士が頼朝に参じて京に上り、武功を立てるためにまさに命がけで平家と戦った際、途中頼朝旗揚げの地、伊豆三嶋神社に戦勝祈願している。東国武士にとって非常に崇敬が深かったのである。

境内はその水難の歴史を物語るように高い石の土台の上に築かれている。隣接する久下小学校は地区の避難所となっており、神社前は消防団の分署が配置され、地区の防災拠点である。

明治二十二年に新川村と合併し新たな久下村が成立した。久下村はその後昭和十六年に熊谷市に編入されている。

久下は中山道に沿った農業地帯であるが街道筋では商工業者も多く、その中でも久下鍛冶の名で知られた鍛冶職人がいて、近世武蔵の鍛冶を代表するものとして知られるところという。天明六年(1786)の「久下村鍛冶先祖代々申伝覚書」が残っており、治承四年(1180)久下直光が鎌倉から国安という鍛冶を招いたことから始まり、以降代々忍城のご用鍛冶を務めたという。

境内に立派な忠魂碑が残っている。帝国在郷軍人会久下村分会とあり、揮毫は陸軍大将福島安正。

律令期から開け、鎌倉時代に勧請され、江戸の交易で栄え、近代の歴史までをを今に伝える多くの史跡が残されている。

 

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まさか自分が

2019-10-17 22:07:00 | 生活

 さる10月12日猛烈な勢力を保った台風19号が日本列島を襲いました。数日前から気象庁より最大限の警戒を要する旨の情報が発信され、観測史上最大の台風上陸であると知らされていました。勤務する店舗も前日から営業時間の短縮を発表し、12日当日は更に営業時間が短くなり、昼12時には閉店となりました。従業員の安全確保はもちろんの事、台風通過時に店舗を開けた際の対応は困難を極めたと思います。私自身も自分の担当部署を締め、翌日の最低限の準備をし、午後2時過ぎには自宅にたどり着くことができました。

流通サービス、販売店各社の対応は様々で、前日に一日休業を発表した大手もあれば、台風接近のさなか、ぎりぎりまで通常営業していた店舗もあります。特にCVにおいては帰宅途中ほとんどの店舗が開いていたようです。従業員に聴いてみると、オーナがいるのでやっていますとも聞きました。24時間365日営業の店舗においては閉店する手順もあまり機会がなく、また物流が動いてしまっているため、納品を待つ必要もあり、閉店する作業負荷もあるせいか、閉めるに閉められないような様子も見られました。(私見です)

地震の時と同様で、災害前後にはGSが混雑します。緊急時の移動手段に車を使う人がほとんどだからです。

午後三時を過ぎたころから、かなり雨脚も激しくなり、荒川の水位が危険水位となり、気象庁からも大雨特別警報が発令されました。それに伴って携帯電話には市からの警戒レベル情報が伝達され、警戒レベル4以上が発令され、市内の中学校、さらには小学校まで避難所の開設がされたことが伝わりました。半世紀近くこの土地で暮らしてきた中で、避難勧告、指示が具体的に出されたのは初めてのことです。

 これまで避難所への避難というとTVの画面で見る世界のことで、自分の実生活においてこうした事態が実際に起こっていることにあまり実感が湧きませんでした。また自分の中での心配事といえば、何より自宅脇の神社の社殿が風雨で損傷しないかとのことがかなりの割合を占めていました。自宅にいれば自分や家族は大丈夫だろうという、潜在意識が働いていました。

 そこに警笛を鳴らしたのが目の前にいる妻でした。TVやメールでこれだけ危険を知らせる状況なのに、避難しないという選択肢はないという考えでした。避難所での居心地の悪さ、なんとなく自宅が安心という根拠のない自信ははこの主張で吹き飛び、とにかく必要なものだけ持って最寄りの小学校へと避難することにしました。ただやはり慌てていたのか、移動する車に乗る際、同行する母が庭で転んでしまいました。子供と妻だけ先に車で出発し、母は汚れてしまった服を着替えてから、落ち着いてもう一台の車で避難しました。

弱者という言葉は適切ではありませんが、実際に有事に移動するにあたっては高齢者はその移動手段に関わらず、弱者となりうると痛感しました。危険を回避するための移動で命を落としたり、怪我をしたのでは本末転倒です。

 

 

避難先の小学校では体育館が耐震工事のため改修工事中で、一階の図書室や図工室が開放されました。避難世帯は約30軒、避難者数100名弱であったと思います。市職員の誘導の元、各部屋で持参した毛布やシートに座ってそれぞれの家庭が静かに時間を過ごしていました。足の不自由な高齢世帯向けに床の上に畳を敷いて対応していました。私も毛布の上に横になっていましたが、やはり固く冷たい床の上では背中も痛み不自由ではありました。但しかなりの暴風雨であったのにもかかわらず、鉄筋造りの校舎内においては風雨の音もさえぎられ、安心感はありました。時間はありましたので、図書室内の本を拝借し読んでいると、過去の中央小学校記念刊があり、現在の教育委員会幹部の方と私の小学校4年の担任の先生がかつての同僚であったことが分かり、30年以上もタイムスリップをしたようでなんとも不思議な感覚でした。

9時を過ぎたころからか、いよいよ利根川の水位も危険との情報からか2階へと移動することになりました。子供や若い世帯はすぐに行動できますが、移動に苦慮する高齢世帯も勿論いらっしゃいます。但し河川氾濫の恐れがある以上、避難所の運営としては2階へ退避は致し方ない事です。

移動の際、使っていた畳の移動、一階の片付けなど若い男性中心に避難者が協力して作業しました。感心したのは施設管理者である小学校の校長先生が避難所である学校へ駆けつけ、市職員と共に避難所運営に携わっていたことです。校長先生のご自宅がどちらか伺うことができませんでしたが、激しい風雨の中ご自宅を後回しにして、避難所の指揮にあたることはなかなかできることではないと思います。

避難者の皆さんは世代の近い地区ごとにまとまって落ち着いて過ごしていました。台風通過が早く、深夜には雨も上がったため、一晩泊まることなく自宅に戻ることができました。

実際の問題として

避難者が増大して施設に収容しきれない場合、どう対応するのか。全戸避難の場合受け入れ不可能なのは明白。(他地区では実際に避難所がいっぱいで休めないところが出たそうです)

避難が長期化して物資が滞った場合、どうするのか。

といった課題が見受けられました。多くの方はこれまでの通り自宅で待機し災害を回避できたわけですので、あくまで自分の身は自分の判断で守るのが基本です。

 自助、共助、公助といいますが、今回の避難を通じて批判ではなくより良い提言がなされて、今後に生かされることを願っています。

 

 

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中江袋 剣神社

2019-10-17 21:03:31 | 神社と歴史 忍領行田

 行田市南河原は『平家物語』巻九「二度のかけ事」に登場する河原兄弟が領有する土地として知られ、北河原を弟盛直、南河原を兄高直が納めていたという。河原兄弟は源平合戦の生田の森の先陣を務めた東国の武者として描かれ、兄が矢で射貫かれた際、弟も其の身を挺して兄に寄り添った様子が剛の者としてしられたとして詳しく書かれている。

 当地は南河原の区内でも最も南側に位置し、星川を挟んで池守地区に接している。古くから発達した場所で、水田稲作の遺構も見られるという。行田市内には持田地区に剣神社があり、日本武尊の伝承を伝えるが、神社勧請の由来については不詳である。

石碑によれば御祭神は素戔嗚尊で天神社、稲荷社が合祀されている。平成八年に建立された現在の社殿の前は、天保三年(1833)に再建された社殿が残っていたという。150年近くその姿を伝えていたことになる。

当地は忍城主成田家の家人であった中条丹後が忍城落城後当村に住み、姓を江袋と改めて代々名主を務めていたという。この江袋家とかかわりが窺える寛延二年(1750)の同家名を刻む宇賀神の石碑が残っている。(向かって左二番目)

戦前まで七月に「ないどー」と呼ばれる厄神除けの行事があった。大数珠を持った子供が各家を「ナイドー、ナイドー」と唱えて疫神を払ったという。榛名講は嵐除けとして神札を配り、三峰講は十月に代参し帰ると新米を食べたという。現在こうした行事が継続しているかは不明である。

境内地に地区の第二集会場が建てられ、参道周辺も耕地が良く整備されている。過疎化が進む農村部ながら、こうした氏神様への信仰が強く残り、地区の整備の象徴的場所となっているようだ。

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長野 白山姫神社と火の祟り

2019-10-10 21:02:23 | 神社と歴史 忍領行田

行田市長野の白山古墳は埼玉古墳群の北端に位置する直径約50m、高さ5.7mの円墳で、墳丘の一部に白山姫神社が鎮座する。教育委員会の解説文によれば7世紀前半としては卓越した規模の円墳で埼玉古墳群の最高首長墓の変遷と古墳群の終焉を考える上で非常に貴重な古墳と考えられている。実際に足を運んでみると、白山姫神社の東側には緑泥片岩が露出している。

ちょうど埼玉と長野の境となるところで、周辺の田んぼにポツンと起立したような古墳だ。字名も白山姫神社からついたという。埼玉古墳群の稲荷山付近から見て北方300mほどの場所であるが、狭い村道が入り組んでいて知らない人だとなかなかわかりづらい。

集会所の前には石鳥居が建っており、白山姫神社の中には頭に白蛇をまいた弁天様が納められているという。江戸初期に流行した「白山信仰」によって修験道たちが全国各地の山に女神像を持ち回り、この長野の地にも持ち込まれたという。字名が白山となったのもこのころだという。

 白山の姫神は家内、集落の安全を守るもので別名『火伏の神』と言われていた。昔からの言い伝えに「この山を掘ると火の祟りがある』と言われてきた。 明治の頃この白山を掘ったものが出て、翌朝その者の家は燃えてしまったという。それ以来近隣の人々は「祟り」ではないかと恐れるようになり、絶対に山を掘らないようにしたという。

 半世紀ほど前、昭和三十一年(1961)年の秋、国立博物館考古学教室が白山の発掘調査を申し入れてきた。当時の文化財審議委員長今津健之助氏らは積極的に動き出し、調査費用を予算として計上し、地元白山地区へと交渉に出向いた。当然地元では

「バチがあったって村が火の海になる」と言って反対したという。

しかし市としてもそのままにすることもできず、当時の奥貫市長、中川助役らが何度説得し、白山地区への公民館建設の話を持ち込んで、昭和33年には公民館が完成する。地元の意見も軟化し、翌年5月には発掘の合意を得ている。

 喜んだ市側は6月初旬には発掘に入る工程を立てたところ、5月29日の日のくれる午後5時近くに白山地区の一軒の農家が庭先でたき火をしていたところ、積んであった藁に燃え移り、さらには母屋まで全焼してしまった。

 明治以降、火事騒ぎが収まっていた地区に、再度火災が出たことから地元民は山の発掘に対する態度を硬化させたが、国立博物館考古学教室の三木文部技官は、「どの地区においても発掘に反対することで問題は起きる。更に交渉すべき」とあきらめなっかったという。

市長以下交渉委員は粘り強く交渉を継続し、「出土品はすべて地区の所有とすること、白山地域を行田市の最大の観光地に育てる」との条件により、三年後地区の了承を何とか得ることに成功した。

 喜んだ三木文部技官は20名からなる学生らを連れ立って一週間の調査に入ることとなった。今回偶然にも前回の様な火災が起こってはならないと考え、関係者らによる「災難除け」の祈願が白山神社にて行われた。地元住民も火災が二度と起こらぬようにと祈願したという。

 ところがその夜になると、今度は地区内の小さな子供のいる農家から火の手があっがってしまう。ニワトリの 雛を孵す育雛器の過熱から出火したという。木造一棟が全焼し就寝中の子供三人と父親が亡くなるという大惨事であった。

無論発掘どころではなく、市関係者もまた国立博物館調査員も「大変なこととなり申し訳ない」と地元民に謝ったという。三木技官や学生たちも「偶然とはいえ2度までも火災が起き、地元住民の感情を害してまで発掘にあたるべきではない」と判断し帰京したという。

静かな田園地帯に佇む古墳と神社。今日でも火伏の神としてこの地域を守る大いなる力を有していると地元の人々は信じている。

(引用 忍の行田の昔話 第40話 白山神社火伏の神)

 

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