皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

長野 白山姫神社と火の祟り

2019-10-10 21:02:23 | 神社と歴史 忍領行田

行田市長野の白山古墳は埼玉古墳群の北端に位置する直径約50m、高さ5.7mの円墳で、墳丘の一部に白山姫神社が鎮座する。教育委員会の解説文によれば7世紀前半としては卓越した規模の円墳で埼玉古墳群の最高首長墓の変遷と古墳群の終焉を考える上で非常に貴重な古墳と考えられている。実際に足を運んでみると、白山姫神社の東側には緑泥片岩が露出している。

ちょうど埼玉と長野の境となるところで、周辺の田んぼにポツンと起立したような古墳だ。字名も白山姫神社からついたという。埼玉古墳群の稲荷山付近から見て北方300mほどの場所であるが、狭い村道が入り組んでいて知らない人だとなかなかわかりづらい。

集会所の前には石鳥居が建っており、白山姫神社の中には頭に白蛇をまいた弁天様が納められているという。江戸初期に流行した「白山信仰」によって修験道たちが全国各地の山に女神像を持ち回り、この長野の地にも持ち込まれたという。字名が白山となったのもこのころだという。

 白山の姫神は家内、集落の安全を守るもので別名『火伏の神』と言われていた。昔からの言い伝えに「この山を掘ると火の祟りがある』と言われてきた。 明治の頃この白山を掘ったものが出て、翌朝その者の家は燃えてしまったという。それ以来近隣の人々は「祟り」ではないかと恐れるようになり、絶対に山を掘らないようにしたという。

 半世紀ほど前、昭和三十一年(1961)年の秋、国立博物館考古学教室が白山の発掘調査を申し入れてきた。当時の文化財審議委員長今津健之助氏らは積極的に動き出し、調査費用を予算として計上し、地元白山地区へと交渉に出向いた。当然地元では

「バチがあったって村が火の海になる」と言って反対したという。

しかし市としてもそのままにすることもできず、当時の奥貫市長、中川助役らが何度説得し、白山地区への公民館建設の話を持ち込んで、昭和33年には公民館が完成する。地元の意見も軟化し、翌年5月には発掘の合意を得ている。

 喜んだ市側は6月初旬には発掘に入る工程を立てたところ、5月29日の日のくれる午後5時近くに白山地区の一軒の農家が庭先でたき火をしていたところ、積んであった藁に燃え移り、さらには母屋まで全焼してしまった。

 明治以降、火事騒ぎが収まっていた地区に、再度火災が出たことから地元民は山の発掘に対する態度を硬化させたが、国立博物館考古学教室の三木文部技官は、「どの地区においても発掘に反対することで問題は起きる。更に交渉すべき」とあきらめなっかったという。

市長以下交渉委員は粘り強く交渉を継続し、「出土品はすべて地区の所有とすること、白山地域を行田市の最大の観光地に育てる」との条件により、三年後地区の了承を何とか得ることに成功した。

 喜んだ三木文部技官は20名からなる学生らを連れ立って一週間の調査に入ることとなった。今回偶然にも前回の様な火災が起こってはならないと考え、関係者らによる「災難除け」の祈願が白山神社にて行われた。地元住民も火災が二度と起こらぬようにと祈願したという。

 ところがその夜になると、今度は地区内の小さな子供のいる農家から火の手があっがってしまう。ニワトリの 雛を孵す育雛器の過熱から出火したという。木造一棟が全焼し就寝中の子供三人と父親が亡くなるという大惨事であった。

無論発掘どころではなく、市関係者もまた国立博物館調査員も「大変なこととなり申し訳ない」と地元民に謝ったという。三木技官や学生たちも「偶然とはいえ2度までも火災が起き、地元住民の感情を害してまで発掘にあたるべきではない」と判断し帰京したという。

静かな田園地帯に佇む古墳と神社。今日でも火伏の神としてこの地域を守る大いなる力を有していると地元の人々は信じている。

(引用 忍の行田の昔話 第40話 白山神社火伏の神)

 

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