皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

県民の日に三菱地所アウトレットでみた野球用具の今昔物語

2023-11-14 21:57:15 | 物と人の流れ

11月14日は埼玉県民の日。明治四年の廃藩置県から今年で152年。当初は荒川の西が入間県、東が埼玉県、明治六年には熊谷県が誕生、明治9年に現在の埼玉県の枠組みが誕生しています。昭和46年には県誕生100周年を記念して11月14日を「埼玉県民の日」と定めています。(埼玉県HPより)
熊谷市は県北の中心都市ですがお隣深谷市も平成の合併で大きくなり、昨年には旧花園町に三菱地所系のアウトレットモールの誘致に成功しています。やはり高速道路の幹線沿いの都市は商業施設の誘致に有利なのでしょう。昨年のオープン時には周辺の渋滞が連日のように続いていましたが、一年経って落着きを見せていました。
一周年を記念してセールはもちろん様々な催しが開催されていました。特に任天堂のショップが人気で、マリオのキャラクターを随所に用いて子供連れの家族の姿が多くみられました。
個人的にはこうした大型モールでの買い物が苦手で、経済的余裕もありませんので、付き添いのような形で致し方なく歩き回っていますが、老化防止のためには新しい店を訪れ、興味をもって見ることが効果的ということを本で読み、せっかくですのでいろいろな店舗を覗いてみます。
アパレルブランドのトミーヒルフィガーです。ごくまれに服を買ったことがありますが、アメリカの発祥のブランドということを初めて知りました。1985年に創業者の名前から付けられています。当時はファッション性に加え、機能性が際立っていたようで、また創業者のトミーヒルフィガー自身が経営を退いてもデザイナーとして残ったという話をネットで拾いました。やはりものづくりが好きだったのでしょう。店内に入りませんでしたが、スポーツブランドのNEWBALANCEです。メジャーリーガー大谷翔平のスポンサーとして今注目されています。私も野球経験者ですが(30年以上前)、当時野球用具のブランドと言えばミズノ、ゼット、ローリングス、SSKといったところでしたが、あの大谷翔平はニューバランスを使っています。もちろんスポンサー契約を結んでいるからです。(私は中学校でローリングスのグラブを使っていました。懐かしいです)

また日本の小学校に3個ずつ野球のグローブを寄贈するとのニュースが話題になっていますが、これも日本市場を見越してのことだというのは間違いでしょう。美談の向こうには必ず経済的合理性が隠れているのです。これらを良し悪しとして図ることは野暮なことです。自由主義社会のスポーツはビジネスと表裏一体なのは間違いないところです。
アウトレットモールの随所に地元の名産品がモチーフとして描かれています。取り上げられるものもあれば、見向きもされないものもある。それはそれで厳しい社会だと思います。県民の日に家族連れでにぎわうモールを散策しながら、資本主義社会の今後について漠然と考えていました。

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カキと私の関係

2023-11-10 17:43:01 | 記憶の片隅

江戸の初期には養殖が始まったといわれるカキ。漢字で書くと「牡蠣」となるのは全部が雄に見えることから。
縄文時代にはすでに食べられていたと考えられていて、「蠣」の文字はゴツゴツした殻を意味するそうだ。近年養殖技術が進化していて、プランクトンを餌としないで養殖可能なものは「あたらない牡蠣」としてよくメディアにも取り上げられている。
牡蠣の料理には忘れられない思い出があって、何といっても牡蠣鍋。二十代のころ外食産業に勤めていて(何度かこのブログにも書きました)和食のファミリーレストランチェーンだった。冬メニューとして牡蠣鍋を提供していたけれど、忙しい時にアルバイト従業員が鍋に牡蠣を入れ忘れ、ただの野菜鍋で出してしまい、お客さんに大いに怒られたことがあった。ただひたすら平謝りで通してしまったが、お客さんのほうもずっと鍋の底のほうまで牡蠣を探していたらしい。
カキフライなどすっかり通年の冷凍材料だけれど、冬の味覚として牡蠣鍋などを堪能するのもいいかもしれない。
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旧騎西町 玉敷神社

2023-11-08 20:46:16 | 神社と歴史

旧騎西町の玉敷神社は延喜式内社の古社と知られ、大己貴命を主祭神として奉斎し明治維新後は郡中の総鎮守として騎西領四十八か村の氏神であった。

文武天皇の大宝三年(703)多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ)が東山道鎮撫使として武蔵国に下った際創建したと伝わる。以来現在地より北方の正能村に鎮座していたが、天正二年(1574)上杉謙信公の関東侵攻に際に兵火にかかり、社殿、宝物等を消失している。
 これは関東の戦国史における覇権争いにおいて避けては通れないところであって、当時騎西城は忍城の仕城として機能していたことに起因する。忍城主成田長泰は関東の争乱に身を置きながら、小田原北条と上杉との間でどちらに着くか揺れ動いている。永禄四年(1561)成田が小田原に与すとなったとたん、難攻不落の忍城に代わり、騎西城を謙信は攻めている。なぜなら騎西城城主小田助三郎は成田長泰の実弟だったからに他ならない。上杉の城攻めは凄惨を極め「関八洲古戦録」によれば女子供の逃げ惑う姿は「目も当てられぬ有様也」と記されているという。(高鳥邦仁先生「歴史周訪ヒストリア」より)
こうした歴史があってかつては越後からの商人は玉敷神社へのお参りを遠慮したとも伝わる。
徳川時代に入りかつての根古屋村(加須市)から騎西城の大手門前に遷座され、1627年頃には現在の地に移されている。
近郷では神社の社宝である獅子頭を借りて五穀豊穣と家内安全を祈願する信仰が残っている。氏子区内だけでなくお獅子様を借りに来る区域は南北埼玉郡、北葛飾、大里、県外群馬茨城にまで及ぶという。
国の重要無形文化財に指定されている神楽は400年以上の歴史を持つという。江戸神楽の原型を伝える舞で年四回祭礼において神楽殿で奉納される。

また紫陽花の名所としても知られ玉敷公園の神苑には樹齢400年の大藤を誇り大勢の花見客を迎える。

美しい金色の銀杏は樹齢500年を超える2本の銘木でこの大銀杏が色づくと麦撒きを知らせる季節となる。
久伊豆神社の総本社として名高い玉敷神社であるが、「玉敷」の由来について國學院大學の学長を務めた元宮司河野省三先生の見解を社務所前の案内文で掲載されているので転記させていただきます。
「玉敷」とは「玉を敷いたような美しい場所」を差し、社号としては当社しか冠していない。
昔「騎西」は「私市」と記していた。敏達天皇の御代(西暦577年頃)この周辺が皇后の御料地である「私市」(きさきいち)として定められ、開拓が進んだことに由来するという。「敏達天皇」は「淳中倉太珠敷天皇」(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)と申し上げ、その住まいを「幸玉宮」と称する御所であったことから「玉敷」の御名をもって社号としたのだろう。また騎西の地名も「私市」「きさきいち」⇒キサイチ⇒「きさい」となったと考えられる。
この武蔵国の中ほど、地域開拓に縁り深い天皇の御名を頂いた尊い社号をいまに伝える玉敷神社。兵火に係るともその御神徳を今も多くの人々へ授けている。
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加須市 馬内諏訪神社

2023-11-04 19:35:44 | 神社と歴史

当社は会の川の南側に位置する自然堤防の上に鎮座している。ここから加須市西中学校、むさしの村まで続く自然砂丘は昔利根川から吹き積もった内陸砂丘で、今でも多くの松林が生息する。
馬内の地名はかつて牧場で馬が多く飼われていた名残で、内陸の干ばつ地帯として遠く灌漑用水をため池から引いていたことから、天水のありがたさを知り、水神として諏訪大神を崇拝していたという。御祭神は、建御名方命で水神としてだけではなく、武門の神としても崇められてきたという。

お諏訪さまはの農業を守る神様で、昔日照りが続くと村人は近くの池から水を汲み、境内に撒いて雨乞いをした。お陰で冬でも水が枯れることがなかったという。

明治期に知方神社、雷電社、九頭竜神社、神明社、川入神社などを合祀して現在に至っている。

参道階段脇に建つ御輿殿建立記念碑は昭和五十一年。高度成長末期の日本が一番元気であった頃で、記毫埼玉県知事畑和。当地が出身地であろう。
現在は神楽などの祭事も継承者がないようであるが、行田から加須へと続く主要街道に建つその鎮守の杜は多くの往来者の安全と区域の安寧を守っているように感じてならない。
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人が人として生きること

2023-11-02 21:31:30 | 生涯学習

令和五年度行田市内5校合同人権教育研修会に参加しました。
行田市内忍中学校、西中学校管区の小学校三校を交えた合同の研修会です。今回で64回目を迎える伝統ある合同研修。私は忍中学校PTAとして参加しました。

講師は羽生市立川俣小学校の長谷川守先生でした。長らく行田市内の小学校で教諭として勤務され、埼玉県教育事務局にて人権教育をご担当、現在お隣羽生市にて校長先生を務められていらっしゃいます。
「権利」の反対は何でしょう?との問いから講演は始まりました。「義務」との回答が多く寄せられる中で、義務を果たさずとも権利はあります。「責任」を果たすことではないでしょうか。とのことでした。欧米圏では人権に対して「human right」としてとらえ、人として正しい道と教えられることが幼いころからされているといいます。
人権教育とは「自分の大切さと共に、他者の大切さを認めることができるようになること」だそうです。人権教育にとって大切なのは知的理解と行動との乖離を埋める「人権感覚」を養うことだといいます。

「人としてどうなの?」こうした疑問をもって他者と接することだといいます。これを時間をかけて育むこと。
「寛容」じっくりと水が染み込むように人としての道を歩むことができるようになることが大切なことです。
研修や学習の前提として「Learning PYRAMID」(ラーニングピラミッド)につて解説してくださいました。
学んだことをそのままにすると記憶に残るのは約5%。それが具体的体験があると75%まで向上します。
さらに記憶に残る方法は
「教える」ことだそうです。人に教えることによって90%が記憶されるといいます。

こうした手法は教育の現場だけではなく、ビジネス社会においても認識されてきていることで、新入社員が他部署の新入社員に研修で自分の部署の仕事を1年目から教えるトレーニングをします。実はこうしたマネジメント理論は広まりやすく、効率化が著しいところです。(ネット社会になってあっという間に広まります)
では人権教育はどうか。
行田市が人権尊重都市宣言を議会で採択したのが昭和48年。ちょうど50年前です。人権に関する課題はむしろ増えているといいます。今日明日ですぐに成果が出て解決するものではないのです。
今日よりも明日、明後日と少しでも良い社会となるよう取り込み続ける。着実な一歩と終わりなき前進こそが求められているのです。
人が人として生きること(行為の意味)宮沢章二先生の言葉が引用されています。
心は見えないが、心遣いは見える
思いは見えないが、思いやりは伝わる。
最後にガーベラの花言葉です。
常に前進しよう

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