諏訪公園交流館で読ませていただいた本『四日市にも戦争があった』四日市空襲を語り継ぐ会 刊より、原孝雄さん(被災当時11歳)の手記です。
私たちは毛布をかぶり、体を寄せ合ったまま、もう考える気力さえ失っていた。火を恐れてか、(三滝川)堤防西より走ってきた一頭の馬が、私たちの前で直撃弾を受けて横転する。時々照明弾が頭上に炸裂し、あたりは真昼のように明るくなった。その度に、私たちは反射的に地上にひれ伏し、あたりが暗くなるのを息を凝らして待った。一瞬恐怖感が走る。空を篤く覆っていた煙は、炎を反射して無気味な赤さに染まっていた。やがて強風に交じって雨が降り出したように記憶している。そうした中にも、火は刻々と堤防近くまで迫り、私たちの見ている前で、川辺の家が火を噴きながら崩れていった。私達はひたすら時の早く過ぎるのを祈るしかなかった。
当時 市の収入役で後に市長になった吉田千九郎さんは、復興後のこととして この本で、次のように語っている。
「市役所東のロータリーの平和の女神像は、四日市浜一色出身の清水某氏の作品で、四日市空襲の日の昭和20年6月18日にちなみ、像の丈を6尺1寸8分としてあることを忘れないで欲しい。当時は裸像を立ててと、市民からも反響があった。(注:現在市立博物館前に移転)
昭和15年空襲以前の地図
昭和21年の空撮
また四日市を道路で6等分した(市役所・諏訪・下新町・三滝通り・老松橋・納屋通り)。歩道も夜店を出せるよう幅を他所より広くした。中町の道路の狭いのは、有力地主が反対したからだ。いずれにしろ道路拡張は、地主の反対にあい、四面楚歌であった。道を広げても両側に建つ家は小さいし・・・。公害のことは全く予想できなかった。(1991年のインタビューによります)吉田氏の言葉から察するに 戦後復興整備事業で 中央通りはできたようです。
中央通り JR四日市駅前
また、この本から、空襲当時、旧東海道に架かる三滝橋はコンクリートでできていたことを知った。1号線の拡幅工事が諏訪神社まで完成していたのは昭和21年の空撮からも分かる。そして何よりこの本から、空襲に遭い傷を負い、家も財産も失った人々への差別があったことを知らされた。「あの人 空襲におうたんやな!家をのうして 怪我して ほんで おかしな靴 履いとんのや」と・・・。
エキサイトバザール時の三滝通り
空襲に遭い傷を負い、家も財産も失った人々への差別。
差別するなんて、一体どういう心理でしょうね。
理解できません。
自分達は生前に良いことをして来たから、被害にあわずに済んだとでも、、、、、?
空襲時の惨状を書いた記録は読んだことがありましたが 被災者に対する差別があったとは・・・
被災者の方の一方的な受け止め方だったかもしれませんが・・・
もう一度読ませていただき お伝えします(コロナにも共通すること しっかり受け止める必要がありそうです)ニャ!