花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

四日市幼稚園の沿革

2020年11月27日 | レモン色の町

四日市幼稚園の記念誌から

岡野繁松氏が、戦時中の諏訪公園の様子をメモ書きにされていました。右上に『演武場』とあります。柔道や剣道の練習場だったのでしょう。『誓いの御柱』は熊澤図書館と演武場の間にありました。現在は東に移築されています。

 

昭和20年戦災のあと、諏訪公園内の演武場を借りて再開園した四日市幼稚園も、入園希望者が多くなったので、収容する施設も四室では手狭になりました。

昭和24年に、市の予算15万円と、PTA予算15万円の協力によって、保育室と管理室を増築したと、沿革に記述されています。

 

さらに27年には、二階建て保育室と玄関を増築して、保育室が六室になりました。

管理室の前(南)に2階建ての保育室が建てられた様子が門の位置から分かります。

昭和29年4月 私は四日市幼稚園へ入園しました。この年、大協石油の火災があり 立ち上がる黒い煙を 門のところから見ていた記憶があります。

 

四日市では、戦後一番早く出来た幼稚園ではなかったでしょうか。私のいとこが、東新町からバスに乗って、新道角のバス停で降りて通ったと話していました。

 

昭和33年 1号線舗装工事の様子です。現在のスワセントラルパーキングのところに「バスのりば」の看板がみえます。

風紀上あまり良くなかったか、手狭になったのか?昭和37年5月、消防署北の四日市産院跡に移転します。

昭和56年の諏訪公園 『誓いの御柱』は、図書館跡西側に建っていますが、幼稚園は跡形もありません。この後、公園整備が行われたと記憶しています。

 


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3 コメント

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Unknown (伊勢生まれの下総人)
2020-11-27 21:33:42
私が入園したのは昭和27年。誓いの御柱は幼稚園の入り口と図書館の間にあり、ここでよく遊んだものです。
昨年、同地を訪れた時には移設されており、びっくりしました。
それにしても、市民壇といい、誓いの御柱といい、あんな石積みの構造物をよく移転したものと感心するばかりです。
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Unknown (伊勢生まれの下総人)
2020-11-28 07:53:41
市民壇の舞台から撮ったと思わる最後の写真に写っている○○記念碑の名前ですが、最初の手書き略図では読めません。タケオさん、ご存知ですか。
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○○記念碑 (タケオです)
2020-11-28 11:39:44
興亜記念碑となっています。市民壇と誓いの御柱が建ったのちに 出来たものと思われます。
これは、現在跡形もありません。何が彫ってあったのでしょうか?
ゴミだらけで あまりここでは遊ばなかったようでした。
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