四日市幼稚園の記念誌から
岡野繁松氏が、戦時中の諏訪公園の様子をメモ書きにされていました。右上に『演武場』とあります。柔道や剣道の練習場だったのでしょう。『誓いの御柱』は熊澤図書館と演武場の間にありました。現在は東に移築されています。
昭和20年戦災のあと、諏訪公園内の演武場を借りて再開園した四日市幼稚園も、入園希望者が多くなったので、収容する施設も四室では手狭になりました。
昭和24年に、市の予算15万円と、PTA予算15万円の協力によって、保育室と管理室を増築したと、沿革に記述されています。
さらに27年には、二階建て保育室と玄関を増築して、保育室が六室になりました。
管理室の前(南)に2階建ての保育室が建てられた様子が門の位置から分かります。
昭和29年4月 私は四日市幼稚園へ入園しました。この年、大協石油の火災があり 立ち上がる黒い煙を 門のところから見ていた記憶があります。
四日市では、戦後一番早く出来た幼稚園ではなかったでしょうか。私のいとこが、東新町からバスに乗って、新道角のバス停で降りて通ったと話していました。
昭和33年 1号線舗装工事の様子です。現在のスワセントラルパーキングのところに「バスのりば」の看板がみえます。
風紀上あまり良くなかったか、手狭になったのか?昭和37年5月、消防署北の四日市産院跡に移転します。
昭和56年の諏訪公園 『誓いの御柱』は、図書館跡西側に建っていますが、幼稚園は跡形もありません。この後、公園整備が行われたと記憶しています。
昨年、同地を訪れた時には移設されており、びっくりしました。
それにしても、市民壇といい、誓いの御柱といい、あんな石積みの構造物をよく移転したものと感心するばかりです。
これは、現在跡形もありません。何が彫ってあったのでしょうか?
ゴミだらけで あまりここでは遊ばなかったようでした。