(1)参院選の自民党圧勝、民主党惨敗により、「衆参ねじれ現象」は解消。少なくとも向こう3年間は、「決められる政治」が実現する。
それは自民郎一党独裁が続いた「55年体制」への先祖返りだ。逆にいえば、英米のような二大政党制の政治を国民が拒否した、ということだ。
国民は、日本経済の命運を安倍晋三・首相が率いる自民党に託した。
しかし、その成長戦略では日本経済に明るい展望は開けない。どうすればよいか。
(2)日本経済がもっとも輝いていたのは、1980年代だ。
当然、米国はもちろん、第二次世界大戦の戦勝国、英仏両国も能天気に浮かれる日本を苦々しく思っていた。だから、米欧との貿易摩擦が先鋭化した。
それから四半世紀。1990年代初頭のバブル崩壊を境に、日本経済は下降線をたどった。15年前からはデフレの泥沼に陥り、抜け出せないでいる。米英仏にとって、日本はもはや目障りな存在ではない。
(3)1970年代まで、貿易摩擦は繊維、テレビ、自動車など個別品目をめぐる問題だった。
しかし、1980年代に入ると、第二の経済大国として猛追する日本の息遣いが聞こえはじめ、危機感を強めた米国が戦略転換した。
米国がとった戦略は2つある。
(a)日本の金融資本市場の開放を求め、日本市場の競争条件を米欧と同じ土俵にのせようとした。しかし、これが日本経済の長期低落の原因となった、とはいえない。
(b)通産省(現・経済産業省)の産業政策を不公正な競争政策として槍玉にあげた。これが問題だった。米国は、日本経済発展の司令塔を通産省と見て、通産官僚の活動を封じ込める一方、その弱体化を図った。米国は、1983年から通産省の個別産業育成策を二国間協議の対象とし、批判を強めた。これは、のちの日米半導体協定(1986年)、日米構造協議(1980-90年)につながっていく。
(4)当時の日本は、貿易摩擦の解消が至上命題だった。通産省は、個別産業の育成から手を引くしか道はなかった。
その象徴的な帰結が、1980年代に世界を制覇した日本の半導体産業の衰退だ。米国の戦略は、その目的を達したのだ。
「規制緩和」「構造改革」「官から民へ」というキーワードも、米国の日本弱体化戦略の延長線上にあった。日本経済全体の成長につながるものではない。
(5)1960年代から1970年代にかけての日本の高度成長、輝かしい1980年代を実現させた大きな原動力に通産省の個別産業政策があった。
政治が先祖返りをするなら、経済政策も先祖返りして個別産業政策を掲げ、恥も外聞もなく猛進すべき時だ。
しかし、ことはそう単純ではない。
かつての通産省には、談論風発の気風があった。通産官僚は多士済々、城山三郎『官僚たちの夏』に描かれたような活力が漲っていた。
しかし、30年の長きにわたり、個別産業政策を抑制することに汲々としてきた今の経産官僚は、もはや役に立たない。浮かぶアイデアが投資減税ではどうにもならない。
政治家が歴史を学び、「政治主導」でやるしかない。が、それができるだろうか。
□大塚将司「“55年体制”に先祖返りした政治よ 歴史に学び個別産業政策の再構築を ~大塚将司の経済私考~」(「週刊金曜日」2013年8月2日号)
↓クリック、プリーズ。↓
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それは自民郎一党独裁が続いた「55年体制」への先祖返りだ。逆にいえば、英米のような二大政党制の政治を国民が拒否した、ということだ。
国民は、日本経済の命運を安倍晋三・首相が率いる自民党に託した。
しかし、その成長戦略では日本経済に明るい展望は開けない。どうすればよいか。
(2)日本経済がもっとも輝いていたのは、1980年代だ。
当然、米国はもちろん、第二次世界大戦の戦勝国、英仏両国も能天気に浮かれる日本を苦々しく思っていた。だから、米欧との貿易摩擦が先鋭化した。
それから四半世紀。1990年代初頭のバブル崩壊を境に、日本経済は下降線をたどった。15年前からはデフレの泥沼に陥り、抜け出せないでいる。米英仏にとって、日本はもはや目障りな存在ではない。
(3)1970年代まで、貿易摩擦は繊維、テレビ、自動車など個別品目をめぐる問題だった。
しかし、1980年代に入ると、第二の経済大国として猛追する日本の息遣いが聞こえはじめ、危機感を強めた米国が戦略転換した。
米国がとった戦略は2つある。
(a)日本の金融資本市場の開放を求め、日本市場の競争条件を米欧と同じ土俵にのせようとした。しかし、これが日本経済の長期低落の原因となった、とはいえない。
(b)通産省(現・経済産業省)の産業政策を不公正な競争政策として槍玉にあげた。これが問題だった。米国は、日本経済発展の司令塔を通産省と見て、通産官僚の活動を封じ込める一方、その弱体化を図った。米国は、1983年から通産省の個別産業育成策を二国間協議の対象とし、批判を強めた。これは、のちの日米半導体協定(1986年)、日米構造協議(1980-90年)につながっていく。
(4)当時の日本は、貿易摩擦の解消が至上命題だった。通産省は、個別産業の育成から手を引くしか道はなかった。
その象徴的な帰結が、1980年代に世界を制覇した日本の半導体産業の衰退だ。米国の戦略は、その目的を達したのだ。
「規制緩和」「構造改革」「官から民へ」というキーワードも、米国の日本弱体化戦略の延長線上にあった。日本経済全体の成長につながるものではない。
(5)1960年代から1970年代にかけての日本の高度成長、輝かしい1980年代を実現させた大きな原動力に通産省の個別産業政策があった。
政治が先祖返りをするなら、経済政策も先祖返りして個別産業政策を掲げ、恥も外聞もなく猛進すべき時だ。
しかし、ことはそう単純ではない。
かつての通産省には、談論風発の気風があった。通産官僚は多士済々、城山三郎『官僚たちの夏』に描かれたような活力が漲っていた。
しかし、30年の長きにわたり、個別産業政策を抑制することに汲々としてきた今の経産官僚は、もはや役に立たない。浮かぶアイデアが投資減税ではどうにもならない。
政治家が歴史を学び、「政治主導」でやるしかない。が、それができるだろうか。
□大塚将司「“55年体制”に先祖返りした政治よ 歴史に学び個別産業政策の再構築を ~大塚将司の経済私考~」(「週刊金曜日」2013年8月2日号)
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