(1)加藤周一は『日本文学史序説』で、内村鑑三の業績として国家とその象徴としての天皇に超越する唯一神の思想、非戦論、聖書研究、社会時評をあげる。「キリスト教は、社会正義の観念を明治にもたらした」。だが、内村の社会時評は言論のみで運動には展開しなかった、あくまで個々の内面を問題にし、かつ、それにとどまった、云々。
(2)明治よりも前に伝播したキリスト教も社会正義の観念を含んでいたはずだ。その観念はたとえば天草の乱という形であらわれた、と思う。
他方、内村鑑三の内面性は、本書に収録される2つの講演録のうち「後世への最大遺物」の締めくくりにも見られる。
<われわれに、後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世に遺したいと思います>
たしかに、加藤周一の言うように個々の内面しか問題にしていない。
(3)しかし、一人一人が真面目たるべきこと、は換言すれば公民の倫理であった。
表面に現れる「行動」より、内面のほうがかえって、権力にとって危険この上なかった、と思う。
「真面目」を鏡にして見ると、権力の虚妄が浮き彫りにされるからだ。
例えば、天皇の御影を拝むという虚妄。権力は共同幻想の上に成立している。一粒の麦が地に落ちて死ねば、やがて共同幻想をうち壊し、権力の基盤を崩すにちがいない。だから、明治政府は天皇の御影を拝まなかった内村を公職から追放したのである。
□内村鑑三『後世への最大遺物、デンマルク国の話』(岩波文庫、1946)
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【参考】
「【読書余滴】佐藤優の国家論、加藤周一の内村鑑三論」