語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『ベルリン・コンスピラシー』

2010年04月20日 | ミステリー・SF
 A・J・クイネルはすでに亡い。ディック・フランシスも鬼籍にはいった。読書の楽しみが減るばかり。
 と慨嘆していたら、嬉しいことにマイケル・バー=ゾウハーの新作が手元にとどいた。本書である。1995年に邦訳された『影の兄弟』以来の小説だ。
 エスピオナージの巨匠、健在なり。
 はたして、重厚にして緻密。期待を裏切らない作品だ。

 A・J・クイネル作品の特徴を二つの熟語であらわすならば、戦士と人情だ。ディック・フランシスは競馬と不屈。この伝でいけば、バー=ゾウハーは、ユダヤ人と謀略ということになるだろう。
 本書も、ユダヤ人と謀略で総括できる。
 ロンドンに投宿したアメリカ国籍のユダヤ人実業家、ルドルフ・ブレイヴァマンが目をさますと、そこはベルリンのホテルだった。そして、殺人罪の容疑で逮捕される。『審判』のカフカ的状況だが、謎はルドルフの息子、ギデオンの尽力によりだんだんと解明されていく。そこで明らかになったのは、複数の国々の高官がからむ大がかりな謀略だった。ホロコーストを生きのびた一人のユダヤ人を犠牲にして・・・・。

 敵とみえた人物が味方、味方とみえた人物が敵、陰謀の背後にまた別の陰謀、といった展開もあって、バー=ゾウハーのファンは堪能するのだが、不思議に思うのは、いま、なぜホロコーストか、という点だ。
 しかも、ルドルフが逮捕された容疑は、ホロコーストに関与したナチの残党狩りに係る。

 バー=ゾウハーは、職歴のさいしょが新聞社の特派員であったことからも察せられるように、事実への関心がふかい。『復讐者たち』『ダッハウから来たスパイ』のようなノンフィクションも残している。つまり、フレデリック・フォーサイスと同様、事実を可能なかぎり洗いだしたうえで、知られざる部分に想像力を注入するのだ。本書も著者がしらべた事実をふくらませている。そこに盛りこまれたフィクションも、いたるところで事実が裏打ちしている。
 ただ、フォーサイスと異なるのは、バー=ゾウハー作品の底には常にユダヤ人の運命というテーマが流れている点だ。実生活でも、バー=ゾウハーはイスラエルの行政マン(国防相の報道官)や国会議員をつとめた。
 してみれば、本書には、21世紀のイスラエル国民のアイデンティティを確認する意図があるのかもしれない。あるいは、昨今のイスラエル批判に対して国を擁護する意図が。もしかすると、本書で重要な要素を占めるネオ・ナチの台頭に係る警鐘かもしれない。

 いや、これはあまりにも図式的な解釈だ。
 ルドルフは使命に従事したことを悔いていないが、殺人という行為に嫌悪を覚え、後々まで悪夢に悩まされている。第三次および第四次中東戦争に従軍したバー=ゾウハーが到達したのは、生命を奪う行為そのものに対する根源的な疑問かもしれない。
 これに直接係ることばではないが、作中に印象的な一行がある。「ものごとに動じない屈強な男は、終わりのない地獄のなかに生きていたにちがいない」

 さいしょ敵対していた男女が、一転、深い関係になったりする甘さがあるのだが、この甘さがバー=ゾウハーのもうひとつの魅力ではある。
 人は、状況にクラゲのように翻弄される一方ではなく、また計算された行動ばかりではなく、主体的に、時としては衝動的にうごいたりもする。人が主体的にうごく契機のひとつは恋愛である。恋愛は、歴史となった過去においても謀略にみちた現在においても、本書において重要な役割をはたす。陳腐といえば陳腐だが、本書で語られる戦後まもなくの恋愛は、すこぶる切ない。

 ルドルフの主体性は、本書の末尾、恋愛とは別のかたちで発揮される。晩年の穏やかな幸福が約束されたはずだったが、個人を超えるなにものかのために自らを投げだす。
 困難な時代をしぶとく生きぬいてきた者には、余人にはないレーゾン・デートル(存在理由)があったのだ。

□マイケル・バー=ゾウハー(横山啓明訳)『ベルリン・コンスピラシー』(ハヤカワ文庫、2010)
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