『これからの「正義」の話をしよう』の売上げは、50万部を突破した。
日本では、ときどきこういう「お勉強本」が流行することがある。90年代では、『知の技法』や『ソフィーの世界』がそれだ。90年代の中頃は、バブルがはじけた直後であり、また旧ソ連の抱懐とともに冷戦構造が終わった後でもあった。世の中はこれからどうなるのか、我々はどう生きていけばよいのか、という「ハシゴをはずされた」不安感があった。こうした混迷の時代には、「原点に戻ってお勉強でもしようかという気運が高まるのである」。あくまで気分の問題だが。「その伝でいけば、百年に一度の危機を経験したゼロ年代後半に、お勉強本のニーズが高まっても不思議じゃないんだけれど・・・・」
で、斎藤美奈子は現物を手にとってみた。
「宣伝文にも使われた『1人殺すか5人殺すか』が、本書のイメージを決定した<おもしろそうかも>といえるだろう」
このエピソードは、本書第2章「最大幸福原理--功利主義」の冒頭に登場する。1884年夏、4人の英国人船乗りが陸から千マイル余り離れた南大西洋の沖合を小さな救命ボートで漂流していた。乗っていたミニョネット号が嵐の中で沈没し、4人は・・・・「と引用しはじめてはみたが、こんな細部はどうでもいい話。この章の眼目は『功利主義とは何か』であり、まごまごしてるとミルやベンサムが登場してきて、話はみるみる難解になる」。
基本的な点をはっきりさせておこう。
まず、本書は米国のエリート大学生のための倫理学の教科書だ、ということだ。だから、新規な議論はない。「功利主義」「自由至上主義(リバタリアニズム)」「共同体主義(コミュニタリアニズム)」といった概念も、「そこに付随する人名も、初学者向けの倫理学の本には必須のアイテム。AとBの二択を迫るような議論の進め方も、倫理学ではお決まりのやり口である」。
倫理学とはどのような学問なのか。
加藤尚武『現代倫理学入門』のまえがきによれば、「人命と嘘」のごときまったく比較できない内容について「AよりBの方がよい」という形の決断・判断を下すことが倫理的決定の原型である。1人の命と10人の命のように一見比較できそうなものについても、どちらがよいかは自明でない。
「話が小難しいのは、それが思考のトレーニングだからである。社会でぶつかる難問を解決するのが倫理学の目的だったとしても、そこに行きつくまでには論理の組み立て方を学び、学説史も踏まえておく必要がある」
では、マイケル・サンデルはいかなる思想の持ち主なのか。最後の10章でようやく明らかにされる。
(1)正義は功利性や福利を最大限にする。(2)正義は選択の自由の尊重を意味する。(3)正義は美徳を寛容することと共通善について判断することが含まれる。・・・・以上の正義に対する三つの考え方を第9章まで探ってきたが、<私が支持する見解は第三の考え方に属している>。
「どういうこと?」
(1)は「功利主義」、(2)は「自由至上主義、(3)は「共同体主義」を指す。「そもそもこの三つの差を知るために本書があるといってもいいほどなので、ここで私が乱暴にまとめるのもどうかと思うが、ざっくりいえば、正義論とは何を優先するかという話で、功利主義とはみんなの利益を、自由主義とは個人の自由を、共同体主義とは共同体の美徳を優先する主義なのだ」
サンデルは第1章で述べている。<現代政治では、美徳論は文化的保守主義や宗教的右派と結びつくことが多い。道徳を法制化するという考え方は、自由主義社会の多くの市民に忌み嫌われている。不寛容や弾圧を招くおそれがあるからだ>。
「それでも自分は自由主義の欠陥を証明し、共同体主義に立つとサンデルは宣言しているわけだ」
ちなみに、加藤尚武はサンデルと正反対の立場から、自由主義はもっとも現実的な倫理基準だと述べた上で、「最近は自由主義に対する共同体主義者からの批判が高まっている」とサンデル説を紹介している。個人には、家族、共同体、社会関係が刻印されており、「負荷のない自己」など幻想にすぎない、それがサンデルの立場だと。
「社会的に埋め込まれた存在」にとって、正義は一つではない。サンデルにとっての「正義」あるいは「公正な社会」とは、効率最大化でも選択自由の保証でもなく、<善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりだ>すことなのだ。
「これが<ハーバード大学史上最多の履修者数を誇る名講義>(帯より)になった理由は、議論のネタとして引かれる事例が現代のアメリカの実状に即しているためだろう。同じ議論をするのでも、寓話みたいな抽象論より、ニュースに隣接したホットな話題のほうが、学生もそりゃあやる気が出るに決まっている」
しかし、ハーバード大学生に人気ある講義が、日本の一般市民に有益かどうかは別問題である。
本書だけに価値があるとは思えない、という斎藤美奈子は、日本の著者が日本の読者向けに書いた倫理学入門書を2冊紹介している。大庭健『善と悪 -倫理学への招待-』(岩波新書、2006)および加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫、1997)である。
【参考】斎藤美奈子「50万人に売れた『教科書』 ~世の中ラボ6~」(「ちくま」2010年12月号、筑摩書房、所収)
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