ポストモダンの中回帰説というのをよく使う。なかなかマーケティングなどにも使える、実用的な哲学理論もしくは社会学理論だ。
どうもハンナ・アーレントも同じことを考えていたようだ。「人間の条件」の第6章にこんな文章があるようだ。
「公的な社会が消滅したことは、孤独な大衆人を形成する上で決定的な要素となり、近代のイデオロギー的大衆運動の無世界的メンタリティを形成するという危険な役割を果たした」
中回帰説での、「大きな物語」の消滅した世界では個々がそれぞれ、その時代やその時の反応しながら生きてゆく、それは流行だったりする。常に判断を求められる、面倒くさい時代でもある。だから思考停止や過剰反応が起きやすい。ツイッターなどのまとめを見るたびに、その極端な状態をみる。
その極端な事例が、震災だった。フクイチの事故は人に極端な判断を迫った。情報の遮断された状態で、人は究極の判断を迫られたのだ。未だかつてその時の傷が和らいだとは思えない。
アーレントのいう「近代のイデオロギー的大衆運動の無世界的メンタリティ」というのは、あの時にあったことなのだろう。いやもう少し前にオウム心理教事件もそうだったかもしれない。荒唐無稽の科学をまとった「大きな物語」に魅了された人たちが行った。
ネトウヨたちの「大きな物語」も、「大衆運動の無世界的メンタリティ」と言ってもいいのかもしれない。天皇を敬い尊敬する社会が実現したとして、犯罪率がとてつもなく下がったりするわけではない。出産率が上がるとも思えない。特に自殺率は下がらないだろう。陛下のお荷物になるなら首をくくるべきだ、そうなるだろう。そしてそういう人も、多いね。
人という価値を単純にした結果、そういった発想があるのだろう。人の価値は多面的で重層的なのだが。
人間の社会である限り、どのようなイデオロギーであったとしても完璧ということはない。完璧であろうとすると、それは小さな社会でしか実現できない。国家だとキューバになる。宗教だとメソジストがその例になるのかもしれない。ただそういった社会では、逸脱者は放逐されるだけの、懐の狭い社会にならざるを得ない。キューバはその点マシか。
インターネットはその小さな島を、広げる力がある。
アルカイダの頃には、ある意味閉ざされた世界であった。誰もが彼らに接触できるわけではなかった。初期にはイスラムでもパキスタンに行き、国境近くでタリバンと接触する必要があった。どうやれば接触できるのかは、人脈がなければいけなかった。
それがネットで大々的に広告を始めたのが、ISISだ。ネット的な緩やかな組織なので、ISISに忠誠を誓うのをネットで表明すればいいだけだ。今一番大きいのはシリア・イラクだが、小さな島はいくらでも増殖できる。
その小さな島が、何をするのか、いつするのかがわからない時代になった。シャルリエブド事件から始まるこの流れは、今後普通になるだろう。
ただそれはイスラムだからではない。アメリカでは今年になって一体幾つの銃乱射事件があったのか。イスラム絡みはボストンの事件だけではないのか?一般的にこういった事件は、なぜか流行する。それこそ大きく取り上げられた自殺の後に、自殺者が増えるようなものだ。
日本には銃規制があるからないだけで、ない国ではどうなっているのか。延々と戦争している。そこを止めた例はソマリランドだけだろう。残念ながらソマリランドは世界から認証されていない、それでもある、変な国家だ
今イスラムという問題が出ているが、この問題の根源はイギリスとフランスであり、ソ連とアメリカであり、今ではロシアとアメリカとサウジアラビアとイランの問題だ。そこにあるダブルスタンダードは、前近代的なものなのだ。そのダブルスタンダードに耐えられないのが、「孤独な大衆人」なのだ。それは世界中どこにでもいる。特に豊かと言われる先進国では特に多いだろう。
私が私であるための認証を求めて、人は右往左往する。私が私であるために宗教過激派に走ったり、連合赤軍もそうだったと思う。
ISISには独身者が多いようだが、まさしくそこなのだ。男にとって女から認証されるのが、男である意味だったりするのだ。無理矢理でも認証させる、そこの意味がよくわからんのだが、男の欲求はそんなものだ。
大きな物語が喪失した世界で、唯一生き残っているのが経済だ。経済こそが大きな物語だ。経済指標と内閣支持率は連動している。ISISも地域経済を確保することで支持率を上げようと初期には努力していた。
シリア難民はなぜ子供を連れて行くのか。理由はシリアにいたら子供に教育を与える機会すらないからだ。そのほとんどがスマホを持っているシリア人は、宗教的潔癖ではなく子供の未来を考えて脱出する。まあ子供を置いて逃げるのは道義的な問題はあるが、その後子供が少年兵になる可能性もある。それだけは誰もが避けたいと思うだろう。
帳簿の領土があるとすれば、そこで戦えない人はどこに行くのだろうか。それはロシアと中国で露骨だ。古典的な手法こそが、現在の状況打破になると考えているようだ。そしてそれは概ね成功している。特にロシアは成功している。
最後に、なぜ神はバベルの塔を倒して、言葉をバラバラにしたのだろうか。それこそが人を争わせる原因なのに、それを放置したのだろう。確かにキリストは現れたが、そこでも言葉の違いで陰惨な争いが起きた。神の名を借りた戦争は長々と続いたが、誰もが経済に屈服した。だから人の世と神の国は分かれたのだ。サウジアラビアがいい例だろう。
人は神の名を語ってはいけない。この原則を忘れてはいけない。神こそが人々を分断したというのは、忘れてはいけない。