どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

今日に限って何もない

2015-11-27 01:48:19 | 日記

 

冬の前の長雨ということで、寒い日が続いている。今日やったことといえば水道管に断熱テープを巻いてさらに保護用の黒いテープを巻いただけだった。後は、ローランドのマイクプリアンプの回路図を手に入れたこと程度だ。

 

 

政府が国内の蛍光灯の製造と輸入を禁止する方針らしい。カメラマンとしてはかなり嫌だ。一番大嫌いな電球色蛍光灯を廃止してくれるのは嬉しいが、物の見え方というのは光源でかなり左右される物なのだ。それをまだまだ未成熟なLEDに急速に移行させるというのは、はっきり言って何をしたいのかわからない。

ヨーロッパの電球文化というのはやはりその点頑固でよろしい。電球だからできる光というのもあるわけだ。まあハロゲン球でもいい。よくいう温かみのある光というが、我々にとっては連続スペクトルを持つ優秀な光源なのだ。それに追いつけ追い越せで発展した蛍光灯にはかなり優秀な物もある。特に印刷物検査用は最高だ。

後5年でLED光源はどの程度まで性能が伸びるだろうか。確かにここしばらくでかなりの進展をした。だがまだ蛍光灯にすら追いついていない。ハロゲン球まで行ければ文句なしなのだが、かなり難しい。

 

 

そういった意味で、最近の政府の姿勢は変だ。とにかくムリヤリ政府が民間を主導したがる。気持ちはわかるが、雇用増やせ賃金上げろ、内部留保がデカすぎる企業には課税ねとか、なんかおかしい。

簡単にできることばかり考えているから、そういった強権的な手法が増えるわけだ。ただリアルは全く逆で、最も難しい問題があるのだ。コミュニティの分散化だ。

コミュニティの分散化は多様な要件が起きやすい。対応するためには人員が必要になり政府予算もそれなりに増えてしまう。代表例が介護保険だろうか。その保険からサービスを算出すると誰も参入したくないほど貧しい物になった。だからアマアマになった。そこを人件費で少し締め付けるとみんな逃げ出している。自宅介護型に移行しようとしても、高齢化社会には追いつけない。

制度設計には少子化という物はなかったのだろうか。普通はあるはずなのだが、それすらもしなかったのかもしれない。

 

 

この10年くらいだろうか、ヤツデが好きになった。この木はなかなかな味わいなのだが、うまいところに育っているのを見ない。その上、新しい家では植えられないものだ。

エキゾチックでなかなかな植物なのだが、植えられる場所が中途半端なようだ。美しく育つと半球状に広がる。

アジサイもそうだが、なかなか面積を食うのだ。それでいて日陰の植物と考えられているのでいい加減な狭い場所に押し込められてしまっている。

 

 

女性の方がキーの幅が大きい。声帯が小さいから倍音が取りやすいのだ。歌手でも女性は3オクターブとかできるが、男では2オクターブがせいぜいだ。あとは裏声だ。

今日買い物に向かう時、信号待ちで佇んでいた時、二人の女性の会話が聞こえた。「そこに車がありますから、送りますよ」「いえそんな」といった会話が延々続くのだが、どんどんキーが上がって行く。そうどんどん。たまに笑い声が出るとうっかりした地声だ。そこではメゾソプラノなのだが、あとの会話は超音波攻撃になっていた。

この二人の間には、何があるんだろうか。仲は悪そうでもないのだが。極めて冷静な会話なのだが。

多分オクターブ上のラとか、その上のミとかそれ以上か。会話でここまでの高音はなかなかに聞けないものだ。

 

 

明日こそは、何かするか。