泰緬鉄道の難所、コンユウの切り通し、すなわち「ヘルファイヤパス」へ到着。到着後、上から覗き込むとこんな感じ。なぜここが「地獄火峠」と呼ばれるようになったか。
泰緬鉄道は当時の日本軍の正式呼称で「泰緬連接鉄道」というそうです。1942年7月に着工。
当時の英領インドのインパールを攻略し、インドからミャンマー、雲南省を経て中国へ抜ける援蒋ルートといわれた中国への補給路を絶つ為に行われた作戦の物資補給を目的とした鉄道だったそうです。
タイのノンプラドックとミャンマーのタンビューザヤを結ぶ全長415kmの鉄道の完成には最低5年は必要との戦前の英国の調査があるそうですが、日本軍はこの鉄道をわずか1年3ヶ月で完成させました。
タイ国内の鉄道経路はカンチャナブリまでは比較的平野が多く、難工事でもなかったのですが、そこから先は山岳地帯となり、熱帯のジャングルに阻まれ、工事は容易には進みませんでした。このコンユウの切通しは特に難所となりました。
この切り通しは上から溝を掘るような形で掘られていきました。
作業は簡単なコンプレッサードリルやダイナマイトを一部用いた以外は、ツルハシ、ショベルで人手による掘削で行われ、
最盛期はSPEEDとDOを語呂合わせにした「SPEEDO」と呼ばれた突貫工事が行われ、そのうち12週間は24時間ぶっ通しで作業が続けられました。一人当たりの作業時間は18時間でした。
徹夜作業で工事現場は沢山のたいまつやかがり火で照らされ、その中でやせ細った捕虜たちがふらふらと作業に従事する、あるものは動作が緩慢だと日本兵に暴行を受け、あるものはその場で息絶え、
わずか73mの長さ、25mの深さの溝を掘るのに400人以上の人がなくなりました。
かがり火は捕虜の人々を地獄へと導く送り火となったのです。
ここの犠牲者のほとんどはオーストラリア軍捕虜でした。
オーストラリアの方にとっては聖地となっています。
あちこちに国旗が飾られています。
当時ここにいた日豪両軍の兵士たちは好き好んでここに来たのではなかったでしょう。それぞれどのような思いでこの風景を眺めたのでしょうか。
枕木だけ残っている箇所。
当時の線路跡。
カンチャナブリ方面を望む。ここから少し先は危険な為進入禁止になっています。
路傍の石に当時の痕跡あり。
ミャンマー方面を望む。ここから先は4kmほどの遊歩道になっています。時間の関係で踏破は断念。
切り通しの入り口にはめられた 故エドワード・ダンロップ氏を顕彰するレリーフ。彼はここの保存財団の支援者でもあり、彼自身オーストラリア軍の軍医として捕虜となり、この地で氏は同僚とともに献身的に捕虜に治療を施し、病を得、死を迎えんとする絶望感にさいなまれた捕虜たちに希望の光を与えたそうです。
彼は生きて無事復員しました。1993年に86歳の天寿を全う、1年後、ここに氏の遺灰がまかれたとの事。レリーフの結びの言葉。「これを見ているあなたへ、家に帰ったら皆に伝えて欲しい。この地で我々は我々の未来を、あなたたちの今日の為にささげたのです」
今は平和な世の中ですが
皆さんどのような思いでこの地を訪れ、
この地でどのような思いをめぐらせ
何を考えながら帰路につくのか。
結局人それぞれではないのかと。
オーストラリアから来た女性。日本人だというと「私の娘のために、これからもずっと仲良くしていきましょう」
博物館は入場無料、タイとオーストラリアの商工会議所が設立。心の命ずるままの金額を寄付をすればOK。募金箱に千円札2枚が入っておりました。
展示物はそう多くありません。
博物館のテラスから見るミャンマー国境へと連なる山々。
泰緬鉄道全線1943年10月の完成まで、約6万人の捕虜と27万人の東南アジア労務者が投入され、そのうち死者は捕虜1万3千人、労務者にいたっては正確な統計がなく、犠牲者は10万人を越すとの試算もあります。いまだにそのなきがらが回収されず、ジャングルの奥深く、埋もれている方も相当数おられるそうです。
日本軍も1万人を配置し、およそ千人が死亡、戦後は戦犯として70人以上が処刑されました。
合掌