撮りさるく

有名かとこっちゃ無名のとこっちゃ 写真ば撮ってさるくざい

TROPICA 地図付き

2022-05-31 06:56:59 | タイ王国
2019年11月21日(木)プーケットはパトンのバングラ通りを抜けて


21時59分、ビーチ沿いのTROPICAというレストランに至った。



海鮮がメインの様だった。






店内。寂しくもなく騒がしくもなく程よい客の入りで、ひとり客もいた。


WOKレストランで満腹、翌日はバンコクへ戻らねばならん、ビールは帰りのバングラ通りのバーで引っ掛ける予定だったので入店はせず。
次回の訪泰時、プーケットに来ることがあればぜひ寄ってみたいと思った。

以下地図である。

BAR FUNK 地図付き

2022-05-29 07:17:59 | タイ王国
2019年11月21日(木)プーケットはパトンのバングラ通りにて


21時52分、BAR FUNKを見た。客席の白人あんちゃんと目が合ってニッコリされたので、親指を立てていいねサインを返しておいた。

以下 グーグルマップから抜き出した写真。



ステージで踊っていたのは白人のおネイサンで、前衛芸術的なダンスをしていた。衣装も1972年に日曜の夜にテレビ放送されていた子供向け特撮番組、超人バロムワンの敵役、悪の組織ドルゲの戦闘員 アントマンの様だった。

PINK 地図付き

2022-05-27 04:07:03 | タイ王国
2019年11月21日(木)タイはプーケットのパトン、バングラ通りを夜歩いた。


21時47分、ソイフリーダム入口にあるPINKに至った。



ダンサーが踊っている舞台の手前、鐘が吊るしてある。この鐘を鳴らすと店内にいる店員、ダンサー、お客さん全員に一杯ずつ奢るハメになるという素晴らしい体験ができるのだ。
筆者も一度だけパタヤのバービアで鐘を鳴らしたことがあるが、5人に奢って自分のビール2杯と合計で500バーツ、邦貨約1,900円弱という安さだったが2008年6月28日(土)の事ゆえ、参考にはならぬと思う。

下はグーグル地図から入手した写真だが、最新の地図ではこの店は RED LADY BAR という店になっている。地図を動かしてみたら判るはずである。

2019年11月の訪泰記事であるのでこれ以降に店名が変わったのか、武漢コロナの影響でつぶれて店自体が変わったのか定かではない。

NEWYORK LIVE MUSIC BAR

2022-05-26 06:51:06 | タイ王国
2019年11月21日(木)プーケットはパトンのバングラ通り


21時47分 NEW YORK LIVE MUSIC BARを見た。
音楽を聞かせるバーだったと記憶。そういやバンコクのソイカウボーイにも1件あったような気がする。



先を行く。以下次号

JAGUAR BAR

2022-05-24 07:08:52 | タイ王国
2019年11月21日(木)プーケットはパトンのバングラ通りを歩いた。歩きながらカメラに収めた店をご紹介申し上げる。


21時46分、JAGUAR BAR



記事を書くにあたってグーグルマップで確認したが、この店は廃業していた。武漢コロナのせいであろうか、だとしたら経営者的には武漢コロナ発生時に初期消火を行なわず、隠蔽を図り世界中にウイルスをばらまいた中共は臭隠蔽とその一味に賠償請求したいであろうと思った。

バングラ通りの夜

2022-05-23 04:46:55 | タイ王国
2019年11月21日(木)WOKレストランで満足の孤独のグルメののち


21時45分、夜のバングラ通りを歩いた。



パタヤのウォーキングストリートを彷彿とさせる賑やかさだが、こちらの方が道幅が広くゆったりしている。

桜島 指宿のたまて箱

2022-05-21 07:33:22 | 鹿児島
2021年10月13日(水)南洲神社から歩いて


11時33分、鹿児島駅前の かんまちあ から桜島を眺めた。雲がかかっていた。



鹿児島駅から11時51分発 鹿児島中央行きに乗車、満席で座れず。


鹿児島中央駅で降りたら

特急 指宿のたまて箱が停まっていた。



さらにJR九州色塗装の汽車を見て



新幹線ホームへ移動し



12時42分発 博多行き つばめ318号に乗車、JR九州の車両であった。

さて4月20日より1か月以上にわたって続いた2021年10月鹿児島出張記もこれにてお開き、ご笑覧を賜った皆様には、厚く御礼申し上げます。

南洲神社 付 ロシア退役大佐の戦争批判 動画付き

2022-05-20 06:43:33 | 鹿児島
2021年10月13日(水)西郷さんはじめ薩軍諸氏のご冥福を南洲墓地にて祈ったのだが、この墓地は神社の敷地にあって


その神社、南洲神社に11時00分、お参りした。
写真は本殿、本殿前に写りこんでいる参拝者は筆者と関係ないご家族でご主人が歴史に興味があって、奥様と娘さんを連れて家族旅行中という感じ。



本殿前から眺めた景色。左側に少し写っているのは社務所で絵馬やお守りなどを売っており、定年退職したので趣味に時間がかけられるようになりましたといった感じの紳士が御朱印帳に御朱印を頂いたりしていた。
そして参道に2本1セットで建っている電燈、何の変哲もなく見えるが実は



国指定登録有形文化財である。1913年(大正2年)設置



南洲神社で参拝後、薩軍墓地にて手を合わせ、御朱印を頂いた紳士に続いて鳥居を出る。



鳥居を出て右手、レトロな土産物屋があったが客はいなかった。平日の昼間という事もあろうが、武漢コロナの影響もあり厳しい経営が続いているのではないか。



振り返って一礼、鳥居の向こうに西郷さんのお墓が見えたのであった。

話は変わってウクライナ情勢、最近のニュースでロシアで軍の作戦に対する、或いはウクライナ侵攻そのものに対する批判が出始めているという記事を目にした。
そんな中、ロシア軍の退役大佐であるミハイル ホダレンコ氏が、ロシア国営テレビの人気討論番組でウクライナ侵攻を批判したというが、これをラトビアの反プーチンオンライン新聞 Meduzaが配信していたのでご紹介する。下線部リンク、自動翻訳につき誤訳御免

2022年5月22日 22時06分配信 ウクライナとの戦争で電撃戦は不可能、ロシアは完全に孤立
国営テレビ チャンネル1の人気討論番組 「60分」はロシア政府のプロパガンダ番組であるが、この番組にコメンテーターとして定期的に出演している退役大佐、ミハイル ホダレンコ氏はウクライナにおける兵力動員と西側の武器供与がロシアに与える影響の説明をやってのけた。以下その内容

・「ウクライナは欧米の援助によって最新鋭の武器を手にし、100万人の兵力を動員できる。ロシアにとって状況は間違いなく悪化する。」

「中国やインドの支援は無条件のものではない。ロシアは孤立しており、反ロシアの42か国に対し、軍事的、政治的にロシアの能力は限られており、ウクライナ作戦から抜け出す必要があるのですが、ロシア人はこういう事を忘れがちで熱狂的になってしまう。」

・司会のオルガ・スカベーエワは、ホダレンコの発言を受け「"今起きていることが当たり前 "と思っている人は少ない。しかし今、私たちの存在意義が問われているのです。降伏という選択肢はない。私たちの消滅を主張する敵と共通の認識を持つことは、不可能です。最後までやりきること--それは、誰かがやらねばならないことです。我々は前進しなければならない。」と結んでいる。

以下Meduzaより抜き出した動画、筆者はロシア語を解さぬので雰囲気を感じ取るよう努めた。
ШОК! Военный эксперт на российском госТВ реально описал "спецоперацию" в Украине


このオルガ スカベーエワ司会者はロシアで有名な女性で、プーチンの代弁者といわれているそうな。ホダレンコ退役大佐とスカベーエワ氏が丁々発止のやりとりをしている中、他の出演者たちがひとことも発しなかったのが印象的であった。

このやり取り、うがった目で見ればロシアにも言論の自由はあるというプーチンの仕込みで台本通りなのか、あるいはクレムリンの反プーチン勢力による操作か、とも思われる。チャンネル1といえば、反戦プラカードをもってマリーナ オブシャニコワ氏が放送中のニュース番組に乱入したテレビ局ゆえ、あくまで自由意志による発言だったとしたら、ホダレンコ退役大佐も、スカベーエワ女史も思想が違うだけで、愛国者なのだと思う。

そしてこのホダレンコ退役大佐はロシアのウクライナ侵攻以前、2022年2月3日、ロシアのネビシマヤガゼータ紙にパンと塩と花をもってロシア軍を迎え入れるウクライナ人はいない、ウクライナとの戦争はロシアの国益にならないと寄稿している(リンク先、雪中の兵士とイヌの写真の部分)が、プーチン批判はしていないゆえ、戦争は長引くであろうと筆者は危惧するのである。

南洲墓地

2022-05-19 06:40:41 | 鹿児島
2021年10月13日(水)県政記念館から歩いて


10時56分、南洲墓地に至った。



墓地後方の遊歩道をあるいて



看板を見た。この南洲墓地、西郷隆盛の墓があることで知られる。
西南戦争での薩摩軍戦死者は6,784名、そのうち各地の戦場から改葬された2,023名がここに眠るという。ちなみに相対した政府軍の戦死者は6,843名で勝者の犠牲が敗者より多かったという熾烈な内戦であった。



遠方より撮影、お参りしている人の前にあるのが西郷さんのお墓だ。左隣には桐野利秋、右には篠原国幹のお墓があったと思う。



岩村県令の碑。土佐藩出身の岩村通俊(1840~1915)は西南戦争終結後、鹿児島県令すなわち政府の役人であったが薩摩軍戦死者を丁重に埋葬したという。



常夜灯。江戸無血開城の立役者、西郷隆盛への感謝のしるしとして1939年(昭和14年)、東京市から寄贈されたもの。
そしてその左隣には



勝海舟歌碑 があった。
ぬれぎぬを 干そうともせず子供らが なすがまにまに 果てし君かな

県政記念館(旧鹿児島県庁舎本館)

2022-05-18 06:56:35 | 鹿児島
2021年10月13日(水)鹿児島市役所本庁舎から歩いて


10時00分、県政記念館(旧鹿児島県庁舎本館)に至った。
1925年(大正14年)築、2000年(平成12年)移築された国指定登録有形文化財である。



重厚な作りである。



正面玄関



階段を上がって2階はレストランだが準備中だった。



玄関を入って左側に展示室があった。



この建物のもとの形の模型があった。もとの建物は鹿児島県庁舎で、現在の建物は、その正面玄関周辺部のみを移築改修したものである。他に鹿児島県政に関する展示が主にパネルでされていた。