秀吉が大陸進出の足掛かりに考えている朝鮮国、九州から見れば関東へ行くよりもはるかに近い
宗氏の対馬からだと博多や平戸より朝鮮の釜山(プサン)の方が近いくらいだ、それなのに日本人は朝鮮をあまり知らない。
朝鮮と言う名の国は、ここに大昔からあった国ではない、日本が有史以来今日まで「日本」であるのとは全く違う、それは国家権力を握った王者が変わるたびに国名が変わるからだった。最初にこの半島を統一したのは金氏の「新羅」
次が、王氏の「高麗」、そして李氏の「朝鮮」となる、現代は「北朝鮮」と「大韓民国」に分裂している。
朝鮮は1392年に高麗の将軍の一人、李成桂(りせいけい=イソンゲ)がクーデターを起こして高麗王朝の王氏一族を皆殺しにして作った国である
朝鮮という国名は、明国の初代皇帝朱元璋(しゅげんしょう)が李に請われてつけた国名だという。
高麗末期の頃、大陸では征服民族(モンゴル族)の大元国(ゲン)の力が弱まり、高麗では今まで通りに元に従うか、漢民族の新興国、明に味方するかで割れていた
高麗王族は元を支持し続けていたが、李成桂は明を支持してクーデターを起こしたのだった。
その後朝鮮では1418年に王位についた4代目の朝鮮王、世宗(せそう=セジョン)という歴代の27代の朝鮮王の中でもっとも優れた王が現れた
世宗の最大の功績はハングル文字を作ったことだ、朝鮮の文字は当時は漢字だけで庶民は字を持てず、書けなかった、それを哀れに思い、また国力を高めるために考えたのがハングルであった、ハングル文字は日本で言えば平仮名かカタカナだと思えばよい。
だが漢字を常用とする貴族&官僚(両班=ヤンバン)の特権階級が猛烈に反対した、「平民に文字はいらぬ」と言うわけだ、そのためハングル文字が日の目を見たのは1900年代の日本の朝鮮統治まで待たねばならなかった。
この世宗の時代にもう一つ、以降の朝鮮政治に影響を与えることが起きている、それは朝鮮国の創成期から安定期に向かう過程で、世宗のもとで活躍した勲旧派(クンプハ)と言われる文人政治家集団の台頭である。
ところが時代が過ぎていくと、これに対抗する士林派(サリンパ)という勢力が王朝で力をもって対立した。
これは王の交代がもたらしたもので、勲旧派は王朝の中で権力を握っている旧来の勢力であり、士林派は勲旧派と意見を異にして野に埋もれていた地方政治家や学者たちで朱子学一辺倒の硬骨の学者や武人である、これが王の交代によって中央に戻ってきて勲旧派を追い落とした、もちろん血で血を争う場面も多くあった
朝鮮は外国との戦はほぼ無かったが、内紛は常に起こっている国だったのだ
王が変わるたびに攻守入れ替わる、権力争いが多い国であった
話を戻すと、この宣祖の時代は、士林派の天下であったが、その士林派も西人派(ソインパ)、東人派(トンインパ)に別れて権力争いに明け暮れていたのだ、しかも、その東も西も僅かの意見の食い違いで更に細かく、南人派(ナミンパ)北人派など幾つもの派閥に別れていたから意見がまとまるなど不可能に近いのだった。
だから秀吉からの難問が届けられた時も、一方は「日本の侵略に備えて軍備を持つべきだ」というし、一方は「平和が続いて人心も安定している時に無暗に騒ぎ立てて不安を煽るのはけしからん」と言う
結局、前者が正解だったが、こんな状況で朝鮮は日本の侵攻に何ら備えをせずいたため、国内が滅茶苦茶に蹂躙されることになる。
いずれにしても200年の間、朝鮮を保護してきた宗主国の明への侵攻を企てる豊臣秀吉の軍を、朝鮮が案内して攻め込むなど、「できぬ相談」ということは一致していた、そのため朝鮮は日本に対して返書さえ送らず無視を続けていた
それで秀吉はついに堪忍袋の緒が切れて、「朝鮮から血祭りにあげてやる」となったのである。
戦争となると、やはり独裁国家は強い、トップの考え一つで素早く行動できるからだ、今の世界を見ても良し悪しは別にして、それが良くわかる
但し、その独裁者に着地能力が不足していれば国家の不幸となるのは明白だ。
秀吉は此度の渡海軍の先陣を九州、四国の大名を中心に送り込むことにした
第一陣は、対馬の肥後の小西行長を大将に、対馬の宗を副とする、これはいわば朝鮮通の大名で、交渉の余地を残した為の第一軍なのだ
続く第二軍は同じく肥後の加藤清正に、肥前の鍋島。
第三軍は豊前の黒田長政、豊後の大友、これらの軍勢が朝鮮半島を三路にそれぞれ競争で朝鮮の首都漢城の一番乗りを競った。
加藤清正と小西行長は肥後一国を分け合い治めていたが、二人は反りが合わない、小西は加藤が嫌いな石田三成と親しい、そんな感情もあったのだろう。
「小西など算盤と金儲けの能力しかないものを、殿下はなぜ先陣などにしたのであろうか、あの男では初戦から大敗を喫するに決まっておる」
などと清正は不快感をあらわにした
しかし秀吉にしてみれば、朝鮮が心変わりして日本軍に協力するという淡い望みを、まだ持っていたのだ
だから朝鮮との通信に詳しい宗と小西を最初に上陸させて、交渉させるつもりだったのだ。
世宗像
ハングル文字で「せじょん大王」と書いてある