その日の昼過ぎに秀吉に宛てて文が届いた、大政所からのものであった
大政所「なか」は字を覚えようとしなかったから読み書きができない、文字を見ると仮名文字で、あきらかに政所「ねね」の筆である。
「たいかうどの ひぜんのくらし ふじゆうはないか はらをくだしてはいないか よくたべているか。
ちかごろまいにち ちくあみがゆめにでてくる なにもいわぬが たいかうのしんぱいをしているのがわかる
わしにも なにかをゆうが わからない かきをさしだして にやりと したしげにわらう いつもおなじゆめをみる わしにこいとゆうているのか
たいかうどの どうかいくさは やめてくれ
いくさがのうなったと みな むねをなでおろしたのに またいくさとは
わしもさきはなごうないゆえ あみださまのおむかえをねごうておる
あみださまは あくにんでもすくって ごくらくへみちびきなさるとゆうが
できるなら すこやかなこころもちで ゆきたいものよのお
わしのむすこが おおぜいをころすのは どうにもたまらぬ
どうか むだなせっしょうは やめてみなをかえしてやってくれろ
おねがいします なか」
わたしからも かかさまのおきもち おねがいいたします
ねね
*ちくあみは秀吉の養父 第一話に出てくる
「ふん! 他愛もない 女子供の口を出すことではないわ」
読み終わると不快な気持ちになって文を破り捨てると
「これ、大坂より京極の局に急ぎ名護屋に参るよう手配せよ」
思えば名護屋到着以来ずっと朝鮮の戦況で頭がいっぱいだった、次々と入ってくる戦況は、それぞれの武将たちの位置の違いで、すべてが時間差であるからそれを時系列で考えるのは至難の業である。
例えば最北端に居る加藤清正の情報は2週間くらい前のものであり、漢城の情報は10日くらい前、釜山だと1週間くらい前のものだ
だから清正の戦況は、秀吉に届いたときには180度ひっくり返っているかもしれない、それを少しでも誤差を無くすために三成ら奉行を渡海させたのだった
「長旅のあとで、いきなりこの忙しさじゃ、儂も少々くたびれてしもうた、寝てもおられぬから、せめて夜くらいは慰めてもらわぬと体も気持ちも持たぬわい」
そばに小姓が居るが、とくにそれに言うわけでもなく独り言のようにつぶやいた。
信長にしろ、武田信玄にしろ、この時代の英雄というのは奥方も側室も多く持ちながら男色も好む者の方が多かったという、しかし豊臣秀吉と言う男は、女性にしか興味を持たぬ、この時代の武将では変わり者であった。
(疲れれば疲れるほど女性【にょしょう】の肌が恋しゅうなる、何事も無くて良いのだ、抱かれてぬくもりを感じながら寝てしまうのが良い、膝枕でもよいのだ、それで一日の全てが消えてしまう)
秀吉は心の底から、そう思っている(わしは世間の雀どもが言うほど色に酔っている人間ではない、わかってもらおうなどとは思わぬが、せめて、ねねにはわかってもらいたいものじゃ)
そんな思いが京極の局を呼ぶことを思い出させたのだった
(おっかあも、ねねも儂の気持ちがわかってはおらぬ、誰が好きで朝鮮くんだりまで兵を出して戦をしようか、わしが養わねばならぬのは日本中の50万にも及ぶ「さむらい」たちとその家族じゃ、戦無くしてどのように養えるか、もちろん貧しくとも平和が良いというものもあろう、だが半分以上は出世を求めてさむらいになった者たちだ、奴らの欲は生きている限り消えることはない
だが国内ではもはや奪う領地が無くなった、戦争も無くなった、だがまだ人の者を欲しがる輩で溢れかえっておる
朝鮮など小さな国はどうでもいいんじゃ、明国を従えてその領土の10分の1をを分け与えてやるだけでも、やつらの領地は今の倍以上になるという
唐国とは、それほどにも広い国土だという、これしかないではないか、儂が間違っておるのか? 儂の私財を増やそうとする戦ではないのだ、なぜおかかも、おっかあもわかってくれぬのだ)
そう考え、無理に自分を納得させようとする秀吉だが、どこかに胸騒ぎがしてたまらぬのだ(なにかがおかしい、いつもの戦場でのウキウキする高揚感がわいてこぬ)、そんなことを思いつつ、いつしか秀吉は眠りに落ちて行った。
釜山に着いて政務を執り始めた石田三成には驚きの連続であった
名護屋に居た時は、勝ち戦の景気の良い話ばかりが秀吉の元に来ていたが、ここに来ると半分は朝鮮の兵がどこどこへ攻め込むとか、どこそこで私兵が挙兵したとか、そんな話である。
小西にしても、加藤にしても、もはや攻め入るのは義州から明国内しかなく、そこに攻め込むには兵が足りないという
「われわれ奉行衆は、ここにとどまってもどうにもならぬ、儂と大谷殿、増田殿、加藤殿、前野殿は漢城まで参りましょう、そこには諸将が集まっているから、改めて軍議を開きたい、兵は1万を連れて参ろう」
出立は3日後と決めて、奉行衆は手分けして準備に入った
三成は秀吉にあてて、現状を詳しく知らせた
「5番、7番、8番、9番隊は先陣が一掃した後に朝鮮に入った部隊でありほぼ無傷であります、その兵数は毛利輝元殿の3万を含めて凡そ75000
しかし1番、2番、3番、4番、6番隊は連戦に次ぐ連戦で兵数は3割がた減少しています。
平壌にある1番小西、宗隊は13000ほど、威鏡道の2番隊加藤隊、鍋島隊は各8000、黄海道の3番黒田、大友隊は併せて9000ほどであります。
近々、明軍が平安道の朝鮮政府軍と平壌に攻め寄せるとの噂があります。
こちらも平壌、漢城併せて4万近い兵力があり、鍋島隊8000を援軍とすれば約5万で迎え撃つことができます。
漢城には宇喜多隊10000、小早川隊15000がおります、慶尚道に毛利ご本家3万
忠清道には5番隊25000、江原道には島津隊12000
これら諸隊も前線へとのお指図でありましたが、全羅道では晋州城が未だ落ちずに健在であり、背後の光州、羅州では朝鮮政府軍2万ほどが活発になっております
また毛利殿のいる慶尚道でも晋州城に呼応した、郭(かく)なにがしの反乱軍が相当数で各地を放火略奪していて毛利隊は離れるわけに参りません。
従って我ら奉行衆5名にて1万を引き連れて、これより漢城に出陣し、軍議の後分散して諸将の監察として同行いたします。
各地の戦況は追って連絡いたします、殿下の渡海は様々な条件で危険が伴いますので、天候も穏やかになる明年春に伸ばして、第二陣の軍勢と共においでくださるのがよろしいかと存じます。」
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