幸州山城は簡素な城塞であったが、狭く急峻で複雑な山道であったことと、所々薄暗い森、びっしりと密集した木々やつる草が邪魔をする
敵には鉄砲の装備、逃げ道がないため死に物狂いになって戦ったからであろう。
その後、権慄らは幸州山城が孤立することを恐れて、後方のより堅固な城へ移った、幸州城は城の体をなしていないので日本軍にも利用価値は低く、結局放置された。
しかし石田三成は報告に敗戦を隠し、敵の後退を利用して秀吉に報告した。
「この度、平壌より押し寄せた10万にも及ぶ大明国と朝鮮の軍を、小早川、宇喜多、立花勢が散々に打ち負かして、敵の大将は深手を負って遼東まで逃げたとのことです
このあと、漢城の西4里にある幸州城に朝鮮の者共が5000ほど集まってきたので、これを退治するため宇喜多殿を大将に我ら攻め入ったところ、敵はこれを恐れて後方に撤退しました。
ただ漢城は雪こそ少ないが、突き刺すような寒さであり病人、負傷者は難儀しております。 兵糧も底を尽きそうなありさまで、後方から届くような様子もありません、弾薬も少なく、また明軍が10万などで攻め寄せれば被害甚大が予想されますので追い打ちはせず、われらも漢城で次に備えております。
雪深い8000尺の谷あいを抜けて、威鏡道から戻った加藤、鍋島勢は負傷者よりも凍傷で指や手足を失った者の方が多く、五体満足でも飢餓状態の様相の者も多く、渡海時25000居た兵は15000ほどに減り、残った兵も申し上げた通りです。
この寒さは敵にも同じであり、さきの大敗北で冬の間は攻め寄せることはないかと思われます、諸将の間では慶尚道まで戦線を下げて、全州、尚州、安東を防御線にすれば兵糧の調達も、防御も容易になると考える意見が大勢を占め始めています。
某も現状を鑑みればもっともなことだと思います、どうかご思案いただきますよう、お願いいたします」
2週間ほどかけて名護屋の秀吉の元に届いた手紙をみて秀吉は、直ちに指示を送り返した。
「そなたからの手紙で漢城の様子はわかった、釜山の奉行を通じて兵糧、弾薬は至急、そちらへ送ろう。
漢城の撤退は加藤清正隊のみ帰国させることにして、宇喜多、小早川、小西らはしばし漢城の防御を固く構築して増援部隊が行くまで守る様にせよ
こちらからは岐阜宰相織田秀信、伊達政宗ら1万を渡海させ釜山一帯にいくつも城を築かせることとする、追々さらに前田など東国大名を渡海させるので、それまで持ちこたえよ」
秀吉からの返書を見て、石田三成は加藤清正へ帰国の命令を伝えた、すると加藤は
「とんでもないことだ、我らは太閤殿下の御為に最後の一兵まで戦うつもりで渡海してきたのだ、もったいなくも豊臣姓を賜り豊臣の名のもとに死ぬれば、これほどの名誉はない、
殿下の御情けはありがたいが、われら加藤勢は漢城守備を継続いたす、場合によっては平壌までも討ちだす所存である」
かたくなな態度に三成も困り果てた、そして小西にもこのことを話すと
「ははは、それは良い、良いではないか。 加藤が自ら墓穴を掘ったのじゃ
このこと、すぐに殿下に伝えよ、『加藤は殿下の命でも聞くことはできぬ、漢城からは動かぬ』『豊臣清正の名乗りで平壌に討ちいる』そのような覚悟でいるため、われらも困り果てている、と伝えよ
殿下は漢城を守り続けよと言われたが、この戦を続けていればわれら漢城の者共はことごとく飢え死にか凍傷か病で死んでしまうであろう、とても戦どころではない、殿下にはこの寒さはわからぬであろう、こんな実りの無い戦はとっととやめるべきだ
終戦交渉を急がねばならぬ、あの明使の沈からも内々で話が来ているのだ、加藤のような頑固者が居たらこの話ははじけ飛んでしまう
殿下も加藤を帰国させよと言う今が絶好の機会じゃ、何が何でも加藤を名護屋に追い払わねばならぬ」
再び、三成から加藤の頑固さを訴えた手紙を受け取った秀吉は怒った
そして直接、加藤清正に召喚命令を送った。 さすがに直接命令では清正でも抗えず捕虜の朝鮮の二人の王子を伴って帰国した。
清正は熊本にて謹慎を申し渡されたが、その間、疲弊した熊本を立て直すために働いた、それでもやり場のない怒りと悲しみを持ち続けた
(そうじゃ、わしには「かかさま」がおった)清正は大坂の政所ねねを思い出した、直ちに手紙を書いて家臣に届けさせた。
「このたび、殿下の御怒りにふれ、何が何やらわからぬうちに肥後に謹慎申し付けられ腐っております
殿下にどのような書状が三成から送られたかわかりませぬが、おそらく拙者を快く思わぬ小西とは一味ゆえ、そのあたりでありましょう
殿下に呆れられては、もはや頼るところがありませぬので、かかさまにお願い申し上げた次第です、どうかお取り成しをお願いします
子供の頃より一命は殿下に捧げてあるのに残念でたまりません、どうぞどうぞお願いいたします」
「ほほほ、虎は20万石の大大名になっても相変わらず童のままじゃ」政所ねねは、清正を愛しく思い手紙を書くと、御付き侍を呼んで名護屋に手紙を届けるよう命じた。 あて先は徳川家康と前田利家であった
半月ほどたって、熊本の清正のもとに、秀吉から「赦免状」が届いた
清正は再び勇んで名護屋へと発った、ねねからの手紙で赦免の為に徳川家康と前田利家が動いてくれたことを知って、到着と同時に、秀吉、前田、徳川を訪問したのは言うまでもない。
秀吉が奥州の九戸政実(くのへまさざね)の反乱を圧倒的な兵力で鎮圧して
完全な日本統一を成し遂げたのは天正19年(1591年)で、僅か2年前だ
その翌年には、もう唐入りを宣言して朝鮮に15万の軍を送った
それまでは唐入りや朝鮮征伐などは口にしていなかったのだ、それより秀吉の関心事はスペイン、ポルトガル、俗にいう伴天連との交易、イエズス会などのキリスト教布教の自由と禁止であった
特に九州でバテレンが宣教師や海賊らとグルになって、日本人の国外売買を行っていることを知ったことで、キリスト教の禁止とバテレン追放を命じた。
だが、それと唐入りは関連性がないはずだった
ただこの時のバテレンとはポルトガルを指す、スペインはまだ秀吉の元を訪れずフィリピン(ルソン)に留まっている。