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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 134 泥沼の戦場

2023年01月24日 17時15分31秒 | 貧乏太閤記
 現代の北朝鮮、韓国の緩衝地帯38度線「板門店(はんもんてん=パンムンジョン)に行くと北朝鮮最初の町、開城(かいじょう=ケソン)が見える
常に取ったり取られたりの、まさに最前線の町なのだ。

 小西行長と石田三成は、加藤清正が命令を無視している気がして面白くない
命令が届いたのか、届かないのか「漢城に集結するように」という命令に従う気配が全くない、それより清正は常にどこかで戦をしているらしい
秀吉の命令は「個別の戦は停止して、漢城、黄海道、江原道のラインを死守せよ」というものであった。
明記はせぬが、加藤清正と鍋島直茂が占領した威鏡道は、「守る必要はないが」と言う風に小西と石田は解釈している
 実は石田の命令書は清正に着いていた、だが清正には清正の事情がある
「今さら何を言っているのだ、我らが他の連中の倍も歩いて勝ち取った威鏡道を手放せとは、ふざけているのではないか。
先月には『明まで攻め寄せよという』命令が届いたばかりではないか、三成は我らを愚弄しているのではあるまいか、此度の書状は三成の独断であろう、親友の小西の面目を保つために我らまで動員しようという考えなのだ、この件は殿下の返事が来るまで聞かずともよい」
こんな風に小西と加藤のいさかいはエスカレートするばかりで、軍監使の黒田官兵衛などは、どちらも言うことを聞かないので腹を立て職を辞して、名護屋に帰ってしまったほどだった。

「殿下、都の大野殿から書状が参りました」小姓が秀吉に伝えた
「殿下、お喜びください。 淀様のお体不調につき医師に診てもらったところ、ご懐妊とのことでありました、まずはお知らせいたします」
 秀吉は舞い上がった、「まさか、まさか、まさかまた子ができるとは、虎の胆が効いたのか」そして朝鮮の戦による憂鬱は一気に吹き飛んだ

 宇喜多秀家は若いながらも総大将として漢城に居たが、石田三成が来てからは立場が微妙になっている、三成にしても奉行としてきたものの、奉行が安定して指導を行える道など一つもない
戦況を垣間見るに結局、先遣隊の一武将として戦に加わるしかなかった、戦死、病死、病気で兵が不足している、
彼らの後から来た代官たちに、それぞれの道都を管理を任せることになったが、わずか300足らずの兵では地元の朝鮮人が従いもしない、むしろ義兵などに呼応して反乱を起こす危険の方が多い
現地軍を監視、管理の目的で来た三成ら6人の奉行は、軍としては僅か1000から2000しか持たないから、万の兵を動かす宇喜多や小早川に従うしかなかった。
 漢城に集結した諸将は、三成を交えて次の作戦のための会議を開いた
「鍋島殿からの連絡では威鏡道の状況は日増しに悪化しており、特に中央部の拠点、吉州(きっしゅう=キルジュ)では加藤勢の代官1500ほど敵に包囲されたとのことである、すでに兵糧も尽きかけて動ける兵も少なく、さすがの
加藤殿も守兵に降参するよう働きかけているそうじゃ」
「それならば我らの内から救援に行くか加藤殿に漢城に撤退してもらうかしかあるまい、このままでは鍋島殿も包囲されるやもしれぬ」
事実、威鏡道では今までの平和が一転して、各地の義兵運動に触発された威鏡道の両班武人も息を吹き返し、加藤清正に従って威鏡道奥地を支配していた、鞠兄弟を征伐してその地を取り返し、朝鮮の鎮台を復活させて日本軍の駐屯地を攻撃するようになった
最大の吉州で1500、それ以外の駐屯地はそれぞれ500程度の守備隊しかおらず、苦戦を強いられていた
「だが殿下は漢城に集結して守れと申された、威鏡道は遠い上に道中は豪雪でここからは行くことさえままならぬであろう、それに救援に兵を割けばますます不利になる、どうせ出撃するなら、敵が遼東に引き籠っている間に、西の幸州山城を攻略すべきではあるまいか、空き城と油断していたが今は数千が籠城しているらしい、今後敵の拠点になる恐れもある」宇喜多秀家の意見にあらかたの将が賛同した、こうして2月には幸州山城攻めが開始された。

加藤隊の話に戻る
一番南の安辺(あんへん=アンピョン)に加藤清正の本隊が5000ほどで駐屯し、そこから北東の威興(いきょう=ハンフン)までの間に鍋島隊が駐屯している、まるでバスの停留所のようになっている。
小人数部隊が点在しているので、どこも2000ほどの敵に攻められても守るしかないのだ、守れば食料は減り、兵は減っていく、もはや飢えとの戦いであった
昭和の戦争の南方(ガダルカナルなど)で取り残されて飢餓に苦しんだ日本守備隊と同じことを、彼らは350年も前に体験しているのだ。
飢えているのは加藤本隊も同様であった、明使が降参するよう説得に来た、だが際どい所で今回の碧蹄館での明.朝連合軍の大敗が伝えられると、明兵は一気に威鏡道から撤退した
加藤隊は雪深い山脈を越えられず、日本海沿いに江原道へ下り、遠回りして、ようやく漢城に入った。
こうして加藤、鍋島隊も撤退してきたが23000で渡海したのが、漢城に着いたのは併せても1万3000足らずに減っていた。

 幸州山城(ヘンジュサンソン)は二つの川が合流している断崖の上に、朝鮮軍が急遽作った俄か城で逃げ道がない、しかも籠る兵は僅か3000ほどで日本軍の3万の前に風前の灯であった。
日本軍は宇喜多秀家の1万を主力に、小西、黒田、さらに石田ら奉行衆など3万の大軍であった、しかし125mという急峻な峰に砦を二重三重に張り巡らしている
攻めあがる道は狭い上に凹凸や木の根がむき出しで、曲がりくねる急坂だ、大軍だからと言って一気に攻め込むことはできず、倒れても倒れても屍を超えて数で押し破るしかない。 城と言うより山そのものだった。
この城塞を護る大将は45歳の老巧な権慄(クヲン.ユル)である、この大将、先の錦山の戦でも小早川隆景の軍を撃退した実績を持つ
ここに進出してきたのも権慄の提案で、北から攻め寄せた明軍に呼応したのだったが、明軍はすでに大敗して遼東まで逃げ帰ったので、置き去りになった感じであった。
だが権慄は小早川との戦いで、武器の劣勢が身に染みていたので、日本軍から奪った鉄砲や、それを見て作った模造銃まで戦闘に使った
高い崖上から鉄砲、短弓、焼石などでの攻撃は効果絶大だった、城門を打ち破りながら登ってくる日本軍だが、本丸はまだ遠く重なる屍は、明治時代に起きる日露戦争の203高地戦の様相であった
宇喜多秀家ら大将たちも前線で兵を叱咤激励していたが、流れ矢に当たって傷つく者が相次いで後方に下がった。
何次もの攻撃を仕掛け、少しずつ前進したが既に1000を超える死傷者を出した日本軍であった
崖の下を流れている漢江は大河で、海からも上ってこられる、海からも近い
それを利用して朝鮮京畿道の水軍が、船団を組んで後詰を送って来た
狭い谷あいに集中している日本の大軍は自由に動けず、たとえ敵が300,500であっても後方から上陸されれば挟撃の形になる、これは昔、信長が朝倉攻めをしたとき浅井長政の裏切りで挟撃されそうになった金ケ崎の戦に似ている、あるいは船から砲撃される恐れもあり、ついに攻略をあきらめて漢城に引き上げた。 朝鮮軍も数百の死傷者をだす激戦であったが守り切った




警戒! 10年に一度の大雪

2023年01月24日 08時38分16秒 | 季節と自然/花
最近よく聞く「**年に一度の」 今回は10年だそうです
先週までは「数十年に一度の」と、「いったいどうなる」と心配しましたが
先週は1ミリも雪は降らず、おかげで毎日、皮シューでお散歩してます。
今日も陽が差して、今のところは晴れですが、突然180度、天気が変わるらしい
わが地域の予想は今日が15cm、明日が45cmだそうだ、合計60cm
近年では確かに大雪だ(子供の頃なら「ちょろい」積雪量だが)
まあ、そんな経験は過去に何度もしてますから、雪国は「降り出したらとまらない」それが怖いのです。
雪は降るのが当たり前であきらめますが、とにかく除雪が嫌だ
あんなことに1時間2時間の重労働をさせられるのが嫌だ
しないで放っておくと近所から「お宅の前だけ雪があって困ります」と来るから
近所づきあいも支障が出る。  ほんとうに雪国の田舎は嫌だね。
晴れていれば、こんな風に散歩出来て気持ち良い
「南天の坂道」(スマホ)





丘の上から海を見る まったく春の景色ですね
「大寒」の雪国とは思えない


今朝の空(北東方向)

9時15分 風が音を立てて吹き出し、唸っている
急に暗くなってきた、いよいよ始まるか?
12時 横なぶりの雪が降って来た 夜から明日にかけてひどくなるらしい