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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 117 相次ぐ不幸 鶴松の死

2023年01月07日 18時07分24秒 | 貧乏太閤記
「もし鶴松が死んだなら、おまえも家族もみな磔に処する」
「そんな、ご無体な!」医師は震えだした。
「もうよい、役立たずは引きずり出して名医を探して、すぐに連れてまいれ」
しかし、新たな医師が来る前に、鶴松は息を引き取った、2歳であった。
1月の秀長に続き、8月には鶴松まで死んでしまった
秀吉は天を呪った、「なぜじゃ、なぜわずかな望みまで儂から奪うのだ、信長様もあれほど子を成したではないか、儂のたった二人の子を二人とも奪うとは天に神は本当にいるのか、いるなら顔を見せよ」

 京雀たちは「おごりに奢った関白は茶道の大家で師匠だった利休様を、些細なことを重大事にすりかえて難癖をつけ、挙句に殺して寺の門前に酷い姿で晒すようなことをした報いだ」とあちこちで言うのであった。

 秀吉は悲しみに暮れたが、それさえ許さぬ事件がすぐに起こって、またも戦となった
奥州の一揆は昨年片付いたが、今度は陸中の南部領で内紛が起こった
南部の一族で実力者の九戸政実(くのへまさざね)が南部家の相続跡目問題で不満を持ち、主家に対して反乱を起こしたのである
最初は小さな火であったが、夏ごろには手を付けられぬほどの大事になり始めていた、南部信直は、これを討とうと思ったが気が付いた
(もしこの内戦を関白秀吉が、私戦と判断すれば喧嘩両成敗で領地を取り上げられるかもしれぬ)そう考えた
「申し上げます、わが一族の九戸政実は同族10家と共に殿下の奥州仕置きに正月頃より不満を申しておりましたが、ついに武力をもって我ら本家の各所に攻撃を仕掛けてきました、我らもしかたなく防戦に努めていますが、これは殿下に対する反抗であります、つきましては早急に軍勢をお送りいただき鎮圧していただきますようお願い申し上げます。」
南部からの書状を呼んだ秀吉は、直ちに津軽、伊達、蒲生に命じて南部を助けるよう命じた、更に豊臣秀次を大将に徳川、堀尾など豊臣軍総勢15万を発進させた、これによって1か月ほどで九戸の反乱は鎮まった
しかしここでも豊臣軍は九戸に味方した城で厳重な守りの城兵に、命を保証すると開城させたが、これは嘘で出てきた武士だけではなく、女子供、農民の果てまですべて殺して、城に入れて火をつけて焼き尽くすという蛮行を行った。
勝ち戦側は何をしても良いと言うが、あまりにも鬼畜的な行為は、秀次にも秀吉の残虐性が伝線したのかもしれな。
この翌年頃から、秀次は気が狂ったように残忍な行動を多々するようになる、それが秀次自身の身に降りかかるとも知らず。
 ともあれ九戸の乱が鎮まると、秀吉は奥羽の大名の再編を行った
伊達政宗には大崎、葛西らの旧領を与えて、北へ移封させ62万石とした
そして蒲生氏郷には会津のほか、伊達の旧領も与えて92万石とした
九戸の乱が無ければ大崎は旧領に復活できたが、これがあって伊達の手に渡ったがため大崎は結局、浪人の憂き目にあった、とんだとばっちりだった。
この年は、秀長、鶴松と相次いで死に、一時は師匠と敬った千利休を殺した秀吉であったから、天正と言う血にまみれた年号に嫌気がさした、そして翌年を文禄と改めた。

 4年前に「バテレン追放令」を出した秀吉であったが、その後、茶々姫が側室になったり、鶴松を産むという祝い事が起こったり、小田原征伐も行った
それで発布はしたものの、ほおりっぱなしにしていたのだった。
「九州のバテレンどもは、その後どうなっている、皆国外に退去したのか」
家臣に聞くと、意外にも発布前となんら変わりなく、島原、肥前、筑前、豊前、豊後辺りではイエズス会の活動は続いているという
秀吉は怒った、だがそんな時なのに大坂城に天正使節団がイエズス会の幹部と共に挨拶にやって来たという
秀吉は気を取り直して、会ってみることにした。
天正使節団は、前にも触れたが、九州のキリシタン大名の大友、大村、有馬が共同で信者の少年武士4人をローマに派遣して教皇に拝謁してきた使節団である。
イエズス会の幹部は、日本にいる最高位の教会長よりもさらに位が高い巡察士というアジア各地の教会を視察する役なのだという。
そのように位の高い者が秀吉の権威を知って拝謁に訪れたのは、秀吉のプライドを大いにくすぐった
そして使節団の少年たちが欧州の珍しい楽器を使って演奏をするというので、秀吉は大政所、政所、淀殿、それに20名以上の側室全てを呼び、それを見せた。
女たちは西洋の音曲に感動し大いに喜んだので、秀吉も満足して、使節団の少年たちや巡察士に多くの褒美を与えた。
秀吉は巡察士のポルトガル人を聚楽第見物をさせる一方、日本人の使節団の少年に茶菓を与えてローマまでの見聞の感想を聞いた
その中でも気になったのは、人身売買された日本人奴隷が予想より遥かに多いということと、その範囲はルソンから東南アジアの各地、遠くはヨーロッパのポルトガルやスペインにも大勢の奴隷が哀れにも情け容赦なく使われているという、買われた時の金額もわずかな金銭であったという。
「自分たちも同朋ゆえなんとかしたいが、どうしようもなかったのが悔やまれる」と少年たちは言った。
それとポルトガルとスペインは隣国であり、数年前にこの二つの国はスペイン国王に統一されたが、国家は今まで通り2つ分かれて競い合っているという
「これらの国のアジアの拠点はインドのゴアであるが、そこを拠点とするのは、この二国だけではなく、エゲレス、オランダというこの二か国からは離れた振興国家もインドに拠点を置いて、やがて日本にも来るだろう」と言うことである。
秀吉がバテレン追放とキリスト教布教の禁止を出しながらも、こうした訪問を心安く受け入れたのは大いなる矛盾であった、だがそれは秀吉の心の中で起きている様々な矛盾の一つの表れであった
 キリスト教、南蛮人、布教、奴隷問題、ポルトガル、スペイン、南蛮貿易
ポルトガルの侵略、これらを筋だった一本の線できれいに並べることはできない
キリスト布教は、その国を支配するための第一歩だということは秀吉も感じていた。 九州の大名ばかりか中国、畿内でもキリシタン大名として信者になっている
秀吉の近習でも黒田官兵衛、小西行長、高山右近、細川忠興の妻、京極高次などキリシタン大名が多い
九州の宣教師にはこうした大名たちを配下として戦力に加えることができると豪語する宣教師もいる、武器にしても大砲、鉄砲、戦艦まで長崎辺りで作っているらしい
それが秀吉の耳に入ったからこそ、長崎の教会区をそれらの領主から取り上げて直轄地にしたのだ
だが、秀吉の戦に勇敢な働きをしてきた大勢のキリシタン大名を弾圧することは、秀吉にしても厄介なことである、いつの間にかキリスト教は深く日本に浸透していたのだ。
さらに「キリスト布教は許さぬが、貿易は今まで通りで構わぬから、商人は南蛮人であっても我が国に来て、上陸することも自由に商いすることも問題ない」などと言うが
これとは別に「わが国民を奴隷として外国に売り飛ばすことは許さぬ」
などと言っても、遠い九州でバテレンが海賊や商人と手を組めば、京にいる秀吉にはなかなかわからないし、人身売買をしているのは南蛮人だけでなく、日本の海賊も一枚かんでいるのだ
これが秀吉のジレンマでアキレス腱である。
秀吉もここは辛抱するしかないと悟った、だがそれだけで終わる秀吉ではない
「枝葉を切っておっても切りがない、根を絶ってしまえばよいのじゃ」