平壌にはまだ大政所の死は届いていない、秀吉が京に行ったこともだ
(沈の申し出は悪い話ではない、仮に話が会談前に戻っても何ら損はあるまい、この話は独断で処理してもよいだろう)
「殿下のお考えなど、儂にはわからぬ、それより明帝は降伏を承知したのか」
「降伏とは申しておりませぬ、降伏するほど我が国は困ってはおりませぬからなあ、ただ朝貢国の朝鮮を救うためなら多少の譲歩はすると言っております」
「それでは我が国が得た朝鮮の領土を返還するだけで、我が国が全面的に損をするだけであろう、そんな条件は飲めぬ、こちらが負けたような条件ではないか」
「小西殿、今わが軍は30万の兵が遼東まで進んで、北京からの進軍命令を待っておるのです、前回の祖の軍と桁違いでありますぞ、しかも北京では更に15万の軍が出撃命令を待っておるのですぞ、平壌と漢城を併せても倭軍は6万は集まりますまい、しかも皆疲れている、病人も多いでしょう、一戦交えたら全滅するでしょう、いかがかな」
「日本人の戦は兵の多少では考えぬ、昔から精神力の強い方が、多くて油断した大敵を破った例はいくらでもある、嘘と思うなら一戦交えてみるがよい
我が国の恐ろしさを味わうであろう
貴国でも『赤壁の戦い』が良い例であろう、大国の項羽も、劉邦に殺されたではないか」
「ははは、小西殿は良くご存じでありますな、油断大敵と申しますからな、そこで儂は腹を割って話したいと申したのです
はっきり言って、この戦は貴国にとっても我が国にとっても良い戦争ではないと思いませぬか、貴国は朝鮮などに攻め込まぬとも自国で十分にやっていけるはず、我が国も自国で十分やっていける、なんとか戦をやめることを考えませぬか、私と小西殿の二人で」
「わからぬ、どういうことを考えておるのか?」
「私が倭人の間者から聞いたところでは、倭王(秀吉)の母上が死んで、いま戦どころではないということではありませぬか、それに漢城には停戦の命令が届いているそうだ、そうでありましょう小西殿」
小西は慌てた、すべて自分が知らない話であったからだ(これは情報の正偽を確かめてからでないと決めることはできぬ)
心を見透かしたように沈が言った「小西殿、今日は話が進みませぬので10日後に改めてここで話し合いを持つことにしませんか」
小西も実のところホッとした、(漢城で必要な情報を集めなければ沈に太刀打ちできぬ、戦の再開となれば真っ先に攻撃されるのは自分たちの平壌城なのだし、自分たちに有利な条件で条約を結ぶしかあるまい)
小西は10日後の会談を承諾した、沈はこれで10日間を稼いだことになる。
小西は直ちに漢城まで馬を飛ばし、石田三成に会った
「石田殿、沈から(こうこう、あれあれ)聞いたがまことであるのか」
すると石田の返事は
「まことでござる、既に大政所様の葬儀は済み、殿下も今頃は那古屋に戻られたであろう。
殿下は気落ちなされたのかわからぬが、今は少し気弱になられたようだ、『唐入りはしばし見合わせて、平壌と漢城の間の守りを固くせよ』と仰せである」
「ふうむ・・・沈が言った通りじゃ、儂が知る前に奴が知っているとは、わが兵の中に明と通じている者がおるのかの? これはゆゆしき問題じゃ
ところで殿下が『明の皇帝が降伏するなら唐の地は安堵』と言ったそうだが真か」
「うむ、そこが曖昧で儂にもわからぬ、殿下は近頃は、その時の気分で言うことが変わるのだ、唐土を占領して後陽成帝を唐の帝として入唐していただき、関白殿(豊臣秀次)も唐の関白にすると言われたり、ある時は『唐(明)の皇帝が降伏するなら唐入りはしない』と言ったこともある」
「それは困るのお、儂もどのように交渉して良いか迷うではないか」
「小西殿、儂らは最近渡海したばかりで戦もしておらぬが、貴殿らはもう半年以上初めての地でご苦労なされておる、正直な気持ちを教えていただきたい
兵らの士気はどうなのか、それが知りたいが、それが交渉の答えになるであろう」
「そうか、それなら申すが、前線の軍はいずれも疲れ切っておる、また土民の蜂起が最近増えたそうで小さな被害が多く、気を許せぬ
張り切っておるのは強敵がおらぬ加藤清正くらいでござる、一緒におられる鍋島殿も迷惑をこうむっておるそうじゃ、皆、停戦を望んでおるのではあるまいか」
「そうか、それならば互いに無条件で、停戦の方向で話を進めるがよい、そしてその間に傷病を癒し、軍備を再構築するのが良いであろう」
十日後、再び交渉が行われて、平壌攻撃のための準備が間に合っていない明と、兵士の疲労回復と、防御の時間が足りない日本の利害が一致して今度は、あっさりと合意に至った、50日間の停戦となった、条件はなにもない
但し、秀吉には明が譲歩したと伝えた。
季節も晩秋から、厳しい冬に向かう。
明から朝鮮に、日本との50日の停戦が命じられた
「そんなバカなことがあるか、我らの国で起こっている戦なのに、我らを交えずに勝手に倭と明が停戦合意とは従えるものか」
朝鮮の将軍や武将は憤慨した、「このようなたわけたことは全国に知らせずとも良い、我らは我らの国土を取り返すために戦いを続けるだけだ」
日本の侵攻以来5か月たち、朝鮮はようやく反撃体制に入ることができたばかりである、その矢先にでた停戦命令は朝鮮義兵にも普州城などで意気上がる政府軍にも届いていない。
結局、休戦したのは明と日本、そして義州の朝鮮軍だけであった
7月頃より朝鮮で唯一、日本軍の勢力が届かない朝鮮南西部の「全羅道」では小早川隆景の15000の第六軍が攻め込んだ
停戦命令に関係なく朝鮮軍の攻撃は各地で起きていたから、日本もそれに対処する
道都「全州」の前にある要衝「錦山城」には朝鮮政府軍が籠って抵抗した、
しかし圧倒的な兵力の小早川軍がじわりじわりと攻め込んでいた
ところが背後から現れたのは高敬命が率いる全羅道の義兵2000であった
それは小早川隊ではなく後方に陣取っていた輜重部隊を襲い、兵糧や弾薬を焼き払ったのである、輜重隊の救援に走った小早川秀包の軍と激戦となった
ついに高敬命は戦いの中で流れ弾に当たって戦死した
しかし兵糧を失った小早川軍は漢城までの撤退を余儀なくされて、全州攻略は失敗した。
高は田舎に引きこもって悠々自適に暮らしていた両班の学者であったが、日本軍の侵攻を聞いて義兵を集めて抵抗戦に参加したのだった、義兵たちの悲しみは想像を絶する、そして高敬命は義兵の神とたたえられた。
釜山に近い慶尚南道では、相変わらず朝鮮軍が晋州城を孤軍で守っていたが、その南50km以内の町でも義兵が起こって解放戦を開始した、また慶尚北道では氷川を義兵によって日本軍から奪い返した
その中心にいたのは朝鮮人民から「義兵長」と呼ばれ尊敬された郭再祐(カク.チェウ)である、このとき30歳の盛りであった。
また海上でも李舜臣の勢いは止まらず、巨済島に隣接する小島、閑山島の沖で海戦が起こり李水軍が勝利して、その数日後にも日本水軍は敗れた
陸軍は多くが朝鮮北部に集結して明国軍に備えたため、南部慶尚道は手薄になっていた、そこを朝鮮軍に突かれたのだった
これを聞いて秀吉は、養子の豊臣秀勝を巨済島の守備に充てた。