これを秀吉が受け取ったのは10日後であった
「これは容易ならぬことだ、思ったより朝鮮は辛抱強い、甘く見てはなるまい」
「いかがなされましたか」徳川家康が聞いた、石田三成ら側近官僚が朝鮮に渡ったため、今ここには徳川家康、前田利家が副将として秀吉と共にいる
「あんがい朝鮮は手強かった、ここに明の大軍がやってくれば我らもいよいよ本腰を入れねばならぬようじゃ、ああこれ」
「はは これに」と現れたのは大野治長(おおのはるなが)23歳の若武者である、近年は秀吉の近習として働き、名護屋にも陣屋を構えている
出自は不明な点が多いが、母ともども、市や淀殿たち姉妹に小谷から仕えていたという。
「淀じゃ、淀を名護屋に呼び寄せよ」
「はは、仕りました」
「まてまて慌てるな、まだ用事がある、釜山の代官に遣いを出せ、『秀勝は巨済島』に渡り、そこで朝鮮水軍を攻撃と撃退するための砦を2つ、水軍基地を守る厳重な城塞を1つ建造するように命じよ」
「わかりました、ただちに」
「殿下は次々とよう頭を巡らせますなあ、若い時より更に活発になられたようじゃ」前田利家が感心したように言った
「うむ、治部少からの文で、朝鮮の水軍が活発でイスンジとかいう水軍大将がなかなかの者らしい、脇坂も藤堂もだいぶ痛い目をみたようじゃ、ははは」
「ほほう、朝鮮にもそのような者がおるのですか」
「うむ、おかげで我らの後続軍も渡海がままならぬようじゃ、わしにも来春まで渡海は我慢せよと申すわ」
「殿下がまいらずとも朝鮮は片付くのではありませぬか」
「それがそうもいかぬようじゃ、毛利は3万も引き連れながら中納言が腹下しばかりして一向に進まぬゆえ名医の曲直瀬(まなせ)まで朝鮮におくってやったのじゃ、すぐに治るであろう、3万もの兵がもったいない」
しかも明の大軍もいずれ攻め入ってくるともいう、これまでの戦は全て儂が先頭に立って指揮してきたのじゃ、朝鮮とて同じ事じゃ、まして唐入りとなればなおさらだ、儂が行かねばならぬようじゃ、その時は徳川殿も5万を率いて共に参ろうぞ、前田殿には、この国を預け申すゆえよろしく頼みますぞ」
「殿下! 殿下!」
「なんじゃやかましい、慌てるな治長」
「大変でござります、肥後で反乱がおこりました」
「なんじゃと、反乱とはなにごとか」
「薩摩人の何がしが農民と配下を引き連れて、加藤様の出城を占拠したとのことでござります」
「薩摩じゃと、なぜだ、島津の謀反か」
「さにあらず、島津家中の不満分子が単独で行ったとのこと、島津でも討手を出したそうでござります」
「よしわかった、木下勝俊に兵5000を預けて薩摩に向かわせよ、あくまでも島津家中でことを収めるように申せ、勝俊は軍監であると申せ
まてまて今儂が島津へ書状を書く、しばし待つのじゃ」
木下勝俊は、北政所ねねの兄の子、すなわち甥である
その勝俊、出発した翌昼にはもう戻って来た
「何があったじゃ、これほど早いとは」
「実は昨夕、我らの陣所に島津義久様がお見えになられたのでございます」
「なんじゃと」
「まことに偶然でありましたが、我らのことを村人から聞いたとのことで」
「よし会おう」
島津義久は、「家臣の梅北某と言う者が、加藤清正の留守で手薄な出城の、佐敷城を乗っ取った」と言った
それを聞いた義久は「これは下手をしたら島津家の命取りとなろう」と急いで対処した、2日後にはこの反乱を鎮圧して梅北を成敗したのであった
そして噂が名護屋に届く前に秀吉に伝えるべく、馬を駆けさせて急ぎに急いでやってきたところ、ちょうど木下勢に会ったということであった。
話を聞くと島津義弘の朝鮮渡海が遅れたのを、「梅北の責任だ」と家中で噂になったため切腹を申し付けられる恐怖心からやけになって、佐敷城を占拠して籠城をしたということであった。
秀吉は義久の素早い鎮圧と報告を褒めて「此度のことは不問といたす」で結審したのだった。
朝鮮へ1万もの兵を島津義弘親子が率いて渡っているゆえ、許してはみたが、秀吉の心には「ケチがついた」嫌な気分が起こった
先般の大政所の文と言い、梅北の反乱も渡海に対する反抗のように思えたのだ
「勝俊、今一度、梅北の反乱を調べて見よ、梅北の背後にもっと大物がおって扇動したやもしれぬ、そもそも島津が渡海に送れたことも、兵が集まらなかったこともおかしい、なにかあるやもしれぬ、島津には現地調査だと申せ」
木下勝俊に、島津の探索を命じた。 勝俊は数名の家臣をつれて薩摩へと下向していった。
朝鮮最前線にたつ小西らは日ごとに不穏な空気を感じていた
物見に送った兵の多くが、あきらかに北の方に軍勢の動きを感じるという
「急ぎ平壌城の整備を点検せよ、特に石垣や塀は厳重にしておくように、兵糧と弾薬も十分に備えておけ、漢城と威鏡道の鍋島殿には敵の侵入に備えるよう、万一には救援を頼むと伝えておけ」と命じた
その頃、義州から朝鮮、明国の国境を越えた先の遼東城ではいよいよ明国遼東鎮台の将、祖将軍が平安道の朝鮮政府軍を併せて2万余で義州に集結した
義州に避難していた宣祖ら王族の喜びはひとしおであった
すぐに祖将軍や諸将の歓迎を行った、しかし次第に不機嫌になった
それは祖将軍があきらかに宣祖を見下しているように思えたからだった
「王よ、われら大明帝国が助けに来たからには、大船に乗った気でおるがよい」まるで明の皇帝のような言い草だった、だが心で思っても口には出せないのが被保護国の朝鮮王のつらいところである
町の中でも明の兵士の横暴や狼藉が目に余った、無銭飲食、略奪、女子への乱暴、暴力などがひどく「これでは倭寇のほうがましかもしれん」などと言う朝鮮住民も現れた、若い女がいる家族などは恐れて山の中に身を隠したほどであった
7月に入ると軍勢は平壌に向かった
いよいよ明の軍隊が日本軍と戦うのである、朝鮮兵と違い明軍には鉄砲も大砲もある、また投石器や攻城櫓などの大掛かりな道具も持っている
ついに明.朝連合軍は平壌城に迫った
小西と宗も10000を率いて城から出て野で待ち受けた、この戦で明軍は日本軍を侮っていた、そのため日本軍の装備や練度を確かめるくらいのつもりで手を抜いていたから、背水の陣の勇猛な日本軍の攻撃を受けると、ひとたまりもなかったので終始守備に回った、そのため小西隊軍は攻勢に出て勝利を収めた。
敵が捨てて行った武器弾薬の類から兵糧まで日本軍は手に入れることができた。「敵はとんだ贈り物を運んできてくれたものじゃ、この程度の敵であればもう一度頼みたいものじゃな」
祖将軍は義州に立ち寄ると宣祖に対して「朝鮮兵に合わせて戦など出来るものではない、我らの作戦を理解できぬどころか、作戦を滅茶苦茶にしてしまった、そのためこんな敗北になった、この次は我らだけで戦う、もっと朝鮮は兵の訓練をせねばならぬ」と捨て台詞を言って遼東に逃げて行った。
「どうやら左議政殿の話も反故になったようだ、明が絡めば朝鮮の考えなど無いに等しくなるであろうからな。これからは明との戦を考えて備えなければなるまい、治部少(石田三成)も間もなく漢城に来るというから、来たらまずは軍議じゃ」小西が宗に言った。
