秀吉の目がアジアに向いているこの時も、奥羽は未だ不安定要素が残っていた。 すでに奥羽一番の勢力だった伊達政宗も秀吉に臣従したが、この男の腹の中はわからない、何しろ老いてゆく秀吉に比べ、政宗はまだ23歳の若武者である、それが秀吉の力が及ぶ以前に現在の宮城県、福島県、山形県の南部を力で攻め取っていたのだ。
秀吉の小田原攻めの時、奥羽の全ての大名に、秀吉は参陣を命じたが、最初から無視した者、諸事多忙で行けなかった者があった
しかし秀吉は理由の如何に構わず、戦後すべて領地を没収して大名を追い払った、その中には行こうにも行けなかった葛西氏や大崎氏もいた。
彼らは伊達に臣従していたため個人で行くことができなかったのだ、臣従していても独立した大名には変わりないので取り潰されたのだった。
その点では津軽氏の素早い動きは称賛に値するものだった。
秀吉は取り上げた、大崎、葛西の土地を家臣の木村親子に与えた
だが、かって肥後を与えられた佐々成政のように葛西、大崎の遺臣たちも他所者の木村には簡単には従わない
征討軍が、それぞれの領地に引き上げて静かになるのを見て、遺臣たちは一斉に蜂起して木村親子を城に追い込んで取り囲んだ
秀吉に、その知らせが入ると
「伊達、南部、蒲生に命じて、ただちに鎮圧せよ、一揆の者はすべてなで斬りにせよ、一人も生かすな」
伊達と蒲生は南から、南部は北から一揆制圧に乗りだした、ところが一揆軍の勢いは一向に衰えない
不審に思った蒲生氏郷が密かに調べると、もともと葛西、大崎は伊達の家臣同様であったことがわかった、それで政宗が遺臣たちの一揆軍に手加減している様々な証拠が次々に集まった。
蒲生はそれを秀吉に書状を送って訴えた
「葛西の一揆がなかなか収まらぬこと不審に思い、所々において調べたところ、伊達政宗に不審な動きがみられる証拠が多く見つかりました。
その数々を列挙して申し上げます、一揆軍に政宗が送った書状もありますのでご覧ください。 伊達が一揆勢と結託すればこれはまた北条合戦のようなことになる恐れもあり、我らは迂闊に攻め込めませんので急ぎ援軍を送っていただくよう、お願い申し上げます」
これを見た秀吉は驚き、浅野長政(長吉)を征討軍の大将として10万の大軍を奥羽に送り出した。
蒲生の動きを察した政宗は方針を替えた、征討軍が来ることを知って動いた
木村親子の籠る城を包囲している一揆軍に2万の兵を率いて攻め込み、多くを討ち取り、木村親子を助け出した。
一揆勢は政宗を味方と思い油断していたから、やすやすと破られてしまったのだ。
それゆえに征討軍が到着する前に、伊達の攻撃だけで一揆は片付いてしまった
政宗はとぼけて「上方の皆さま、遠路ご苦労様でございます。 蒲生殿と共に攻め寄せよとの仰せでありましたが、蒲生殿は慎重居士なのか動きませぬので、某だけで攻撃し、運よく一揆を片付けることができました」などと、人を食ったことを言った。
征討軍は白河まで戻り、そこでしばし様子を見ることにした。
蒲生はもっと徹底していた、軍団を解散せず、武装したまま占領地に居続けて伊達に気を許さない
秀吉から伊達政宗に呼び出し状が届いた
政宗は僅かな家臣を供に急ぎ京に向かった、政宗は9割がた命が無いと思っていた、一揆勢を扇動する書状が秀吉の手に渡ったことも知っていた
この一揆に政宗が重要な役割をしていたのは事実だ、新しい領主「木村父子」などすぐに追い払えると思っていた
大きな領主の経験がない者に、奥州という特異な風土と民を抑えられるとは思えない、それは的中した
最初から「未開の田舎者」と見下して、圧政で民や大崎ら旧臣を押さえつけようとしたのが反発を招いた
驚いた木村はすぐに伊達政宗に助けを求めたが、政宗は「ほら見たことか」と心で笑いながら出兵した、だが一揆勢を陰で扇動しているのは政宗なのだから木村は居城に追い詰められた。
政宗は一揆が起きる前に、秀吉に領土を奪われた大崎義隆に対して
「上洛して太閤に旧領を返していただくよう願い出るが良い、儂が大崎殿が小田原に行くことができなかった理由を添え状に書くから、それを見せて抗弁すれば再び返り咲きが叶うやもしれぬ」と返還運動を勧めた。
たしかに大崎が参陣できなかったことには仕方ない事情があったのだ
大崎は言われるままに上洛して秀吉に哀願した。
秀吉から見れば、取るに足らぬ小さな領土である、同情した
だが既に木村に与えた後だから遅きに逸した、気の毒に思い大崎を側近として秀吉の元に置いた
そんな時、木村の領土で一揆が起きたのだった、大崎は秀吉に「某を征討軍と共に奥州に行かせてくだされ、必ずや鎮めますので」と申し出た。
秀吉も「餅は餅屋」だと思い、それを許した
「見事鎮めて、木村を生きたまま救い出せば大崎の旧領は、そなたに返そう」と仏心を出した。
大崎義隆は勇んで出陣した、だが伊達政宗が陰謀が露見することを恐れて一揆勢を皆殺しにして、木村を助け出したことは前述の通りだ。
大崎は伊達の保身のために旧領を戻してもらえるチャンスを失った。
だが伊達政宗のピンチは終わっていない
京で秀吉の前に引き出された政宗は悪びれることもなく、23歳のはつらつとした表情で向かい合った
「政宗よ、何故にここに呼び出されたかわかっておるか」
「わかっております、何者かが拙者を讒言したと伺っております」
「讒言か、事実か、それをこれから調べるのじゃ、だが逃げることができぬ証拠がいくつも届いておる」
「ほほう、それはいかなるものでしょうか」
「しらを切るか、バカ者め、釈明してみよ」
秀吉は家臣に蒲生から届けられた証拠を読み上げさせた、だが政宗は物証がない状況証拠の数々をすべて看破した
「ほほう、政宗よ、なかなかの知恵者であるな。それではこれを見るがよい
そなたが一揆の首領に宛てた扇動する書状じゃ
そなたの花押もある、大崎が先日持ってきたおまえの書状と、文字も花押(サイン)も寸分たがわぬ、おまえが書いたものに間違いない、どう釈明するのじゃ、胴と首が離れるのは時間の問題じゃの」
すると政宗は少しも動揺せず、「殿下、上方では花押や書体などやすやすと寸分たがわず真似る名人が数多おると聞いております
今、一揆勢を鎮圧に来た衆にも上方の者が多く、某を貶めて伊達領を奪わんとする者が居たのかもしれませぬ、某が一揆を扇動するなどとんでもないことです、某も命が惜しゅうございます、天下人の関白殿下に歯向かいましょうや」
