それから間もなく毛利輝元と小早川隆景が聚楽第を訪れた
毛利家は聚楽第の天皇行幸に来ることができず、こうして改めて伊予と筑前を賜ったお礼と、聚楽第落成、天皇行幸のお祝いにやって来たのだった
多くの名品を贈られて、秀吉は満足であった、そして輝元と隆景に秀吉からの贈り物があった
「毛利殿には光秀退治の時、四国、九州攻めにも大いに与力してもらい統一のための力となってもらった、儂からも褒美がある」
「それは勿体ないことでござります」
「毛利輝元殿および、小早川隆景殿に権中納言、吉川元春殿に従四位を賜ることを後陽成帝にお願いして内諾されたのじゃ」
「おお、そのような官位を賜るとはなんと御礼を申し上げればよろしいか、さほどの手柄もあげぬのに領地と官位を賜るとは我ら果報者でござる、これ以後も関白殿下には忠誠を誓いまする」
「ははは、そうかしこまらなくてもよい、それにのう儂にも太政大臣の位を賜ったのじゃよ、関白太政大臣豊臣秀吉じゃ」
「おお、それはめでたきことでございまする、先の太政大臣織田信長公さえ遂げられなかったことでござります
今や天下に並ぶものなき御威勢でございますな、もはや天下も平定なったも同然でございます」
「うむ、だがもう一人だけ滅ぼさねばわからぬ馬鹿者がいて困る」
「それは・・・関八州の」
「そうじゃ北条氏政よ、いくら上洛を勧めてもやってこぬ、そしてわしに悪態をついていると聞く、今しばらく様子を見るが、このままにしてはおけぬ、もう一戦となるやもしれぬが、その時はまた与力を願うぞ」
「いつなりと申し付けくだされ」
「心強い、北条など島津に比べれば赤子のようなものじゃ、物見遊山で参ろうと思っておるのじゃ」
「それはまた殿下らしゅうござる」
毛利が帰国してから数か月後、九州から使者がやって来た
「佐々成政殿が、ご自害なされました」
「なに! 成政が自害しただと」
「はい」「どうしたのじゃ」
「佐々様が肥後に入ってからも土一揆、地侍の不平不満が絶えず、佐々様は厳しく処分したところ、ますます一揆は激しく、肥後全土で起こった様子
ついに城下まで攻め寄せられる始末となり、『せっかく太閤殿下に引き立てられたのに、老いたりと言えど、このざまは合わせる顔がない、あとは頼む』と申して腹を切られたよし」
「なんと、早まりおって、馬鹿めが」
「いかがいたしましょうや」
「すぐに黒田、立花、有馬、大村、大友を北から、南からは島津に兵を出させて一揆を制圧するよう申せ、抵抗する首謀者は容赦なく斬ってよい、早く鎮めるように」
そして間もなく一揆は鎮まった。 秀吉は主が居なくなった肥後を北と南に二分して八代に小西行長、北の隈本(くまもと)には加藤清正を領主として入れた、ふたりとも秀吉直属の武将である、豊前の黒田官兵衛と共に秀吉直参が九州で睨みをきかせている。
秀吉がついに明国遠征を具体的に考え始めた、その第一歩を動き始めると
小西行長は困った、詳しく言えば対馬の領主、宗義智(そうよしとも)が困って小西に相談したのだ、宗は小西の娘婿である。
対馬は九州と朝鮮半島の中間にある、そこそこ大きな島だ、あまりにも日朝間の便利なところにあるから、宗氏はずっと表でも裏でも朝鮮相手の貿易を行っていた
だから朝鮮語を話す特殊な大名である
朝鮮と日本は室町幕府(足利将軍)の時代には盛んに往来していたし、その先の明国とも貿易を行っていた
しかし足利幕府の足元が揺らいできてからは、それが今日まで止まっていたのだ、天下人となった秀吉の次に目指す道は明らかになった
「朝鮮との交信を再開して、朝鮮王に儂が島津を服従させて日本を統一したことを伝えよ
そして日本に服従して証として朝鮮通信使(外交団)を派遣して朝貢(ちょうこう)するように申し渡せ」
秀吉は、宗にそう命じたのだ。 今まで朝鮮と良好な関係を結んで利益を得ていた宗は、命じられたまま朝鮮側に伝えることなどできない相談であった
かといって「できません」などと言えばたちまち改易、それどころか処刑されるかもしれない、それで小西に泣きついたのである。
そして天正17年(1589)年明け早々にはめでたい出来事が起こった。 茶々が懐妊したのだ
秀吉にとって初女の娘「ふじ」が懐妊して以来20年ぶりの二人目の懐妊であった、さすがの秀吉もうろたえまくった、無理もない、明けて秀吉は52歳になるのだから。
秀吉は急いで京の手前の淀城の整備改修を始めた、ここを産所として茶々を聚楽第から移すためであった
何と言おうと茶々の身分は側室である、しかし城を賜った側室など茶々が初めてである、秀吉にとって茶々は正室並みである、それほど茶々と京極殿には特別な思い入れがあるのだった。
茶々が淀城に入ると、秀吉は家臣や側室や女官らに茶々を改めて淀君、淀様と呼ぶよう命じた。
この喜びに舞い上がった秀吉は朝鮮のことなどすっかり忘れてしまっていた。 しかし宗の方は命がけで朝鮮の問題で悩んでいた
「とても殿下が申されたことを朝鮮王に、そのまま伝えることはできませぬ、なにか双方が立つ方便はないでしょうか」と小西に聞いた
「これは難問じゃ、殿下の申されることをかみ砕いて、朝鮮王が機嫌よく承知する言い回しの文書を作るしかあるまい、今回は最初であるから『服従せよ』はあえて書かず、『太閤殿下が日本国の戦乱を鎮めたので、これからは貴国との誼(よしみ)を足利時代と同様に結びたいので、太閤殿下を祝すための通信使を是非送っていただきたい』とすればよいであろう、面倒なことは次回にすればよい、また一年も二年もかかるであろうから」と小西は言った
すなわち、朝鮮王と秀吉の両方を騙してしまおうという大胆な案である
しかし宗にしても、これが最良の解決策だと思うしかなかった。
こうして宗が書いた、偽親書を持った正使に通訳を兼ねた外交僧をたて、宗義智が副使として、朝鮮大4代王「宣祖」(ソンジョ)に拝謁した。
そして通信使を日本に送る約束を受け取った。
秀吉が朝鮮よりも先に思い出したのは関東の北条についてであった
もはや誰もが認める天下人となった秀吉であるが、未だに関東で上野(群馬)、武蔵(埼玉、東京)、相模(神奈川)、伊豆(静岡)それに現代の千葉、栃木の一部をも支配する北条氏政は秀吉を天下人とは認めなかった。
再三の上洛要請にもこたえず、徳川家康の息女と息子の北条氏直が夫婦となって親戚関係になっていたし、奥州の伊達政宗とも同盟して、常陸(茨城)の佐竹を牽制している
だからいざとなれば、徳川、伊達を味方にして秀吉に立ち向かう気持ちがありありと見える、もしもそれが現実となれば、徳川5万、北条7万、伊達3万の巨大な抵抗勢力となる
だが、それは氏政の勝手な思い込みで、徳川家康にとって迷惑以外の何物でもない。 家康は北条に対して、秀吉に従えば毛利、徳川、共々大老格の処遇を得ると説得するが「あのような下賤の者の風下に立てようか、徳川殿こそなぜ、あのようなものにへつらうのか」と逆に言い返される始末であった。
秀吉は、一気に北条を片付けようとも思ったが、淀殿が子を授かったことで、血を見ることは生まれてくる子にもよくないと思って我慢している
子供は順調に育っているようだ。
秀吉は日本の統一を果たしたつもりで私的な戦の禁止を全国の大名に申し付けた、だが北条と伊達は、それに従わず領土拡大の戦を続けている
今は秀吉に臣従した真田昌幸からは、戦を仕掛けてくる北条を何とかしてほしいと毎日のように言ってくる
秀吉は、子が生まれるまでは戦に関わりたくないので、越後の上杉景勝に命じて、真田の後詰を申し渡した
それで北条の侵攻も今のところは鎮まっているが、いつ大軍で攻め込むかわからない。
そして7月、ついに待望の男子が生まれた、秀吉は喜びその子を「拾い(ひろい)」と名付けた。
老域に差しかかった秀吉は、もはやただの孫が可愛い老人でしかなかった
政治も忘れて、毎日、毎夜、拾いを抱きに淀城へ通った
真田からの要請も「五大老、五奉行は何のためにある、そなたたちで北条くらい、どう攻めるか考えよ」と言い渡して、また淀城に籠る始末である
仕方ないので、五奉行が集まって、北条攻めのあらゆる方法を話し合い、兵糧の調達から運送方法まで細かく計算した
このようなことをさせると、石田三成の緻密な頭脳がさえわたる、秀吉も北条征伐の試案を見て唸った、完璧すぎるほど完璧であった
準備に半年かける、来年の春先には小田原に攻め寄せる
10年前なら、この地位に秀吉が居るなど誰にも想像できなかったであろう
当時の秀吉は信長の家臣団の中で5人の方面軍団長の一人でしかなく
その兵力は、島津、大友、毛利、長曾我部、徳川、北条よりもはるかに小さかったのだ。
トーナメント式に考えればベスト16に進出したくらいで、その中でももっとも弱いチームだと言えよう
それが次々と強豪チームを破ってついに北条との決勝に向かっているのだ
それも一方的な攻撃で、北条は守勢一方、力量も問題にならぬほど差がある
信長が亡き後、秀吉が戦い破った敵をおさらいしてみよう
最初が明智光秀であった、それから柴田勝家、織田信孝、滝川一益、紀州の雑賀、根来寺、長曾我部、島津、これらには圧勝した
唯一、徳川家康、織田信雄の連合軍と引き分けている。
だが結局は織田信雄も屈服させたし、徳川家康も臣従させた。
いよいよ、この日の本で秀吉に敵対する大物は関東の覇者、北条あるのみとなった、秀吉にしても天下平定の仕上げとしてやり遂げねばならぬ大仕事となる。
