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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 114 朝鮮への使者

2023年01月04日 17時13分57秒 | 貧乏太閤記
 秀吉はこの度の大名の配置換えをかってないほど大がかりにした、切れ者と見た蒲生氏郷を会津に42万石という大封を与えて近江から移した、信長が足利義昭を奉じて近江へ攻め上ったときは、蒲生父子は六角氏の家臣で、日野城で1万石ほどの国人だったのだから、秀吉に従って大出世と言える
これは伊達政宗と徳川家康への抑えである。
織田信雄への移封の知らせは一番最後になった
秀吉からの遣いが知らせを持っていくと、その場で開封して読みだした
遣いが帰ろうと挨拶すると「しばし待て」と命じた
読み終えてから落ち着いた声で言った
「このような采配には従えぬ、帰って関白に申せ、草深い田舎など儂には合わぬ、石高は少なくて良いから、織田家先祖伝来の地である尾張と伊勢を儂によこせと言え」
使いの武士は困惑して「某のような者に、関白様に申し上げることはできませぬ、もし異存があれば文書にしてお渡しくださればお届けいたします」
「ふん! 一理ある、しばし待て」
使者からの文を読んだ秀吉は石田三成に言った
「たわけめが、未だに儂の主気分か、ここで儂が信雄に譲って元の鞘に納めれば家康ら外様は儂を侮るであろう、もはや遠慮はいらぬ、信雄から領地をすべて取り上げて放り出せ」
ついに秀吉は荒療治を行った、しかし誰一人として憤慨したり、反抗する大名はいなかった、織田家が主君だという時代錯誤の武士が居なくなったと言える
秀吉は改めて自分の天下人としての地位を確認できたのだった。
信雄は憤慨して入道し、いずこかを頼って消えた、信雄なりに意地を貫いたのであった。

秀吉の新たなる主な知行地のあてがい

最上義光 羽州40万石         南部信直 奥州30万石
伊達政宗 陸前岩手沢58万石      佐竹義宣 常陸52万石
蒲生氏郷 会津42万石         徳川家康 関東250万石
宇都宮国綱 下野19万石       里見義康 安房4.5万石
上杉景勝 越後・信濃川中島60万石   前田利家 加賀.能登.越中94万石         
加藤光泰 甲斐信濃内23万石      津軽為信 奥州津軽5万石
長谷川秀一越前東郷15万石       堀尾吉晴 遠江浜松12万石 
堀 秀治 越前北の庄18万石      中村一氏 駿河府中14万石
細川忠興 丹後宮津16万石       加藤清正 肥後32万石
福島正則 伊予20万石         山内一豊 遠江掛川5万石
池田輝政 三河吉田15万石       小西行長 肥後35万石
石田三成 近江の内4万石         豊臣秀勝 美濃岐阜13万石 
豊臣秀長 紀伊.河内.大和100万石    織田信雄 旧徳川領200万石
毛利輝元 中国112万石          宇喜多秀家 備前60万石
長曾我部元親 土佐10万石       黒田孝高 豊前中津12.5万石
蜂須賀家正 阿波18万石        島津家久 薩摩.大隅46万石
吉川広家 出雲富田12万石       京極高次 近江大津6万石
生駒親正 播磨加里屋6万石        宮部継潤 伯耆鳥取5万石


里見、筒井、丹羽、伊達などは大幅に領土を削減された、仙石久秀などは島津攻めの失態などで改易されてしまったし丹羽長秀の嫡男長重は100万石も削られた、また里見も小田原遅参を咎められて上総35万石を取り上げられ、伊達政宗も同じ理由で会津40万石を失った
筒井も息子の代になり、住み慣れた大和を召しあげられて伊賀上野転封とされた。
 そのほか情報に疎く小田原に参陣しなかった奥州の国人の多くが改易されたが、もっとも遠い津軽(青森)の小大名、津軽為信は南部から勝ち取った3万石という小さな領地を守るため、いち早く兵も連れず単身で小田原に駆け付けて秀吉から歓待を受け、3万石のお墨付きをもらって南部家の家臣から独立したのである
昭和に入って、この津軽家から津軽華子さまが皇室の宮家に嫁がれた、島津家からも同じく、島津貴子さまが宮家に嫁がれている。
 秀吉の知恵袋であった黒田官兵衛を九州に飛ばし、しかも12万石足らずと言うのは秀吉が官兵衛の智力を警戒したからだと言われている
自分が亡き後、徳川などと組む恐れを心配したのかもしれない、本当にここまでくると秀吉も守りに入ったような配置である。
だがよくよく考えると九州が日本の玄関であることに、秀吉は島津攻めのとき気づいたのだ、だからそこに大番頭である黒田官兵衛を置いたのは至極当然である、加藤清正、小西行長も島津の抑えというよりは、いずれ明国攻めで何かの役割を与えるつもりであったというほうが正しいであろう。
また四国には福島正則と蜂須賀家政を置いている。
中国の毛利は120万石安堵しているし、これを見ると秀吉のこれからが九州を向いていることがよくわかる、何よりも腹心中の腹心となった石田三成に大きな領地を与えず、傍に置いて様々な場面で奉行として働かせているのも含みがあるのだ。
 誰もが秀吉が天下人であることを認めた
それは国内に戦が無くなったということである、庶民であれ大名であれ、平和になった世の中はありがたい ところが
「平和になったが、これから我らは何をして生きればよいのだ」戦に明け暮れて、戦うことしか知らぬ武士たちは、そう思った
殿様である大名にしても同じように思った、今まで他人の物を奪って土地や収入を増やしてきたのに、戦が無くなれば家臣をなんで養えばよいのかと

 それは秀吉も同じであった、だが彼はすぐに気づいた
(まてまて、まだ日本の王になっただけではないか、信長様も言っていた、『我が国の海を出れば「世界」が広がっている、そこに乗りだしてスペインやポルトガルと初めて互角になるのだ』と、そうだ、日本の平定くらいで満足してはおられぬ)
秀吉は五奉行たちを招集した「わしはこの国をようやく平定したが、隣には朝鮮、明国の唐国(からくに=中国)もある
また薩摩より下れば琉球国(沖縄)、高山国(台湾)、呂栄(ルソン=フィリピン)、シャム(タイ)、天竺(インド)、さらに先にはユーロペの国々がひしめいている
この小さな日の本に閉じ込もってはいられぬ、次はこれらの国を儂に臣従させるのだ、三成、長盛、正家、そなたらは手分けして、朝鮮、明国、琉球に使者を出して儂が日本の王になったこと、そして臣従するように伝えよ
朝鮮にはすぐに使者を送って、足利幕府の時代と同様に通信使を我が国におくるよう伝え、国交の再開を求めよ、また薩摩に命じて琉球に朝貢(ちょうこう=貢物を贈って従うこと)させるように」
この時代の琉球(沖縄)はまだ独立した王国だったが、力が弱く日本と明国という二大大国に挟まれていたので、両方の国の顔色をうかがいながら生き延びてきた、しかし江戸時代に入って薩摩藩が攻め込んで、薩摩の領土に組み込んだ。以後日本国の一州となる)

 長い平和が続く朝鮮国は宗主国(弱い国を保護する強い大国)の明国のおかげで外敵の侵入もなく内政だけの問題が起こるだけだった
ところが突然、日本から昔のような付き合いをしたいと申し出があった、日本と今さら交易やら親交を始めるのは有難迷惑以外の何者でもなかったが、無下にもできず、朝鮮の朝廷は混乱した
 この時、朝鮮王は第14代宣祖(せんそ=ソンソ)である、朝鮮王27人のほぼ中期の王である
宣祖は最高位にある3人の最高官を呼び寄せて相談した
領議政(りょうぎせい=ヨンウィジョン)、左議政(さぎせい=チャウイジョン)、右議政(うぎせい=ウウィジョン)の三役である
「倭国より通信使の再開を求めてきておるが、どうしたものであろうか」
「このようなもの放っておけばよろしいのでは」
「いや、倭国の王、ひでよしは武力で倭国を制したと聞き及んでおります、たぐいまれな暴君で明国まで攻め入ると申して居るとか」
「そのような者であれば、早急に明国に対応していただくよう申し出てはいかがでしょうか」
三人が三人とも慌てるだけで、意見は想像の域を出ず、どうしてよいかわからない。
「では、わが官軍は倭人の軍と戦う力はいかがであるのか」
「漢城の守備には五衛(軍)が交代で充っており心配はありません、地方には鎮守軍の水営、陸営が各道にあって夷敵に備えておりますし、特に慶尚道には他の道の倍の、それぞれ二営を置いて倭国に備えております」
「そうか、簡単には倭国が攻め寄せることができないのじゃの」
「さようでございます、訓練も日々行っておりますし、都城の衛兵はみな両班と中人だけで編成されている最強のぐんであります」
「それを聞いて安心した、それでは余裕をもって倭人と交渉もできるであろう、さっそく倭国に遣いを出すがよい、堂々として倭国の王と渡り合うよう申し伝えよ、我が国の繁栄を見せるために土産は立派なものを持たせよ」
 翌1590年正使などの高官3名と多くの役人を引き連れて京を訪れ、聚楽第で秀吉に拝謁した。
宣祖からは多くの祝いの品が秀吉に贈られた、また書状には「太閤殿下が日本を統一され平和な世を作られたのはまことに喜ばしく、心から朝鮮国民もお喜び申し上げます、これからは日朝の親睦を深めることを望むものであります」
とあった、文章は柔らかいが、どこにも日本に従うとも書かれていなかったが、秀吉は淀殿の懐妊の喜びもあり、先入観で都合よく考えたので、満足した。
そして通信使らの滞在中に京、大坂の繁栄ぶりを見物させて、日本がいかに豊かに繁栄しているかを見せつけた。
そして最後の日に通信使に返書を持たせた、宗氏は気が気でない、通信使一行を対馬で一泊してもらい、もてなしたいと対馬に立ち寄らせた
その隙を見て返書を盗み見て、宗義智は青ざめた
「われらは明に遠征するので、その案内をするべし、唐国(明国)が日本国の大名のように速やかに我に従うよう朝鮮王から申し伝えよ、速やかに従い朝貢の使者を送ってくるならば、その領土は安堵して攻め寄せることは致さぬ」と書かれている
明らかに日本軍が朝鮮を経由して明に攻め込むから、「案内せよ」という高飛車な隷属国に対する命令書である、秀吉は朝鮮から通信使が来たこと自体が、隷属したとみている、朝鮮からの土産を朝貢の品と思ったのである。
宗氏にとって、このような文書を朝鮮王に見せるわけにはいかない
しかも今度の書状は秀吉の日本国王の花押が記されているから、偽文書にすり替えることもできない
困った宗義智は、前回も正使で宣祖に拝謁した外交僧に言い含めた
「そなたの知恵を駆使して、『日本の使節団が明と和平条約を結ぶために入朝したいので道案内をお願いしたい』との意味であるとすり替えて話してもらいたい」
さすがの外交僧もこれには絶句したが「命に代えても、やり遂げて見せましょう」と言ったので、義智もこれには感涙を止めることができなかった。
僧は朝鮮通信使一行と共に朝鮮の首都「漢城(ハンソン)=今のソウル」に行った
そして苦し紛れの詭弁を駆使して、朝鮮の大臣や高官がどのようにも解釈できる言い回しで話したので、結局朝鮮の高官たちはわけがわからぬまま、放置しておくことにした、秀吉の命令は朝鮮に無視されたのである。



今年の干支はこんな意味

2023年01月04日 07時54分12秒 | どうでもいいこと
ラジオの受け売りです
今年は「癸卯 (みずのと・う)」
「みずのと」は、「終わり」と「はじまり」の意味があるらしい
すなわち、去年までの出来事はすべて終わりにして、リセットして新しい一年の始まり
去年を継続したり、修正するのではなく、すべて無かったかのように白紙に戻してやり直すという
だから去年が仕事でも生活でも健康でも苦しい一年であったなら、今年は幸せになるチャンス
また別の意味だと「種まき」の意味もある、今年撒く種は2年後に花開くという、今年はチャレンジする「吉」の年だ
今年始めた挑戦は、2年後の自分を助けてくれる
趣味でも、仕事でも、資格取得でも新しいことにチャレンジするのに良い年なのだそうだ
総合的に言えば、去年までの自分をきっぱり捨てて、新生活を始める
それも「ぼ~~」としているのではなく、新しいことにチャレンジすれば、2年後に身を結ぶ大事な年、これが2023年だそうです。