北条は関東全域に支配力を持ち、従う関東の諸大名は20家を下らず、その支城群は100に迫る
北条と支城の総兵数も7万を超えるから、九州の島津よりも一回り巨大な敵と言えよう、さらに北には新進気鋭の若武者、伊達政宗が北条に味方して後詰になるという噂もある。
伊達政宗は、現代の宮城県から山形県東部にかけて威を張っていた伊達輝宗の嫡子でまだ20歳前後だが、父が非業の死を遂げた後、伊達家を継ぐと会津の実力者、芦名氏を滅ぼして福島県の大部分を領土に加えた、さらに越後、奥州、常陸まで攻め込もうとしている風雲児であった。
その領土も100万石にもなる勢いで2万以上を動員できるし「イケイケ」ムードで絶好調なのである
これが北条に味方したら、少し厄介なことになりそうだから、秀吉は小田原攻めを決めた時から政宗に遣いを出して「徳川殿に協力して北より北条を攻めよ」と命じているが未だに返事をよこさず、秀吉はその対処にいら立ちを覚え始めている
そのために伊達に向けて常陸(茨城)の有力大名52万石の佐竹義宣と下野(栃木)19万石の宇都宮氏に命じて警戒させている。
特に佐竹氏は弟の芦名氏を伊達に討たれているので伊達に憎しみがある、また北条とも敵対関係だから秀吉には頼もしい味方なのである。
天正17年(1589)初秋から秀吉は小田原攻めの準備に取りかかった
攻め寄せるリストを作ってみると海上からの部隊も含めて参加する大名は、全国40数家、総兵力は25万、それを半年賄うための兵糧、武器弾薬の準備には石田三成、長束正家の奉行に充てた。
秀吉は小田原が落ちるには半年から長ければ2年はかかるとみている
過去の北条の戦い方を見ても巨大で堅固な小田原城に籠る戦術をとるとみている、それは過去にも籠城戦で武田信玄、上杉謙信を追い払った実績があるからだ。
そもそも小田原城とは日本にはあまりないが、中国やイスラム国家に多い城郭都市型の城で、田畑から都市部までも城と一緒に、最大の外郭曲輪で取り込んでいるから、米、野菜などの生産にも困らないし、水不足もないのである
だから5年でも10年でも籠城できるというわけだ
その小田原城の大きさは東西2.7km、南北2.2kmと言われ、海岸線にまで達しているし、周囲は酒匂川、早川、相模湾に守られ、さらに20kmにも及ぶ堅固な堀や外曲輪で外敵を寄せ付けない。
更に長野県佐久地方から群馬県、埼玉県、東京都、栃木県南部、箱根、伊豆北部にかけて100以上の支城や砦が小田原を守っている。
北条も秀吉との一戦を確かなものとして準備に取り掛かったが、北条の一族武将や昔からの家老たちも多く意見がまとまらない
籠城の消極的意見が多数を占める中、総大将北条氏政の弟、北条氏邦は源平合戦で東軍源氏が大勝利した縁起の良い富士川で、豊臣軍を迎え撃ち、第二防御線を箱根に張ろうと積極策を申し出たが、籠城すべきという多数派に押し切られた。
そのため箱根が防御ラインの最前線となり、その主力陣地は山中城と定め5000の兵を城将松田康長に預けて籠らせた
さらにそれを支援するために山中城の南に韮山城、北条氏規(うじつき)の3000、また小田原に近い足柄城などの支城も強化して豊臣軍に備えた。
天正18年(1590)に入ると、豊臣軍が動いた西からは主力の秀吉軍20万
北からは前田、上杉、真田の北陸越後の別動隊5万、東北からは下野の諸将が別動隊に合流するべく南下した
また九鬼、長曾我部などの水軍は海から相模湾封鎖と相模沿岸の北条軍を砲撃するために数百艘の船団を派遣した。
本隊の先陣は織田信雄、徳川家康、豊臣秀次が充てられた
敵の主力山中城には豊臣秀次の3万、韮山城には織田信雄の3万、山中城の搦手には徳川家康が3万で攻め寄せた
その頃、秀吉の本陣10万はまだ駿河にあった。
3月、北陸軍が信州川中島の海津城を発った、そして碓氷峠を超えて松井田城に攻め寄せたのは4月の初旬であった。
また箱根では3月末から本隊が攻撃を開始した、北条の箱根の要の山中城は意外にもたった半日で落城してしまたった。これは北条にとってアクシデントと言って良い、これを聞いて小田原の北条軍には動揺が起こった。
城将の松田も討ち死にしてしまい完敗であった
駿府でこれを聞いた秀吉は上機嫌で満悦であった、たった半日で箱根を突破したのだから無理もない
ところが数時間後には、その顔が曇った、山中城攻めで秀吉の子飼いだった一柳直末が敵弾を受けて戦死したと報告があったからだ
加藤清正らと共に少年時代から、まだ並みの武将でしかなかった先が見えない秀吉に献身的に仕えてきた男だった、思い出もいっぱいある
秀吉が長浜城主になったとき誰よりも喜んだ青年だった直末、秀吉も7人の黄母衣衆(きほろしゅう=伝令や警護の武士)の一人に抜擢したのだった。
「直末を失った悲しみは、小田原を攻め落とす喜びの何倍も大きい悲しみだ」と嘆いたという。
徳川軍も甲州方面の峠を越えた支隊が足柄城に向かったが、敵は山中落城を聞いて早々に小田原城に逃げ込み、戦をせずに城を摂取して家康らは足柄城に入り、付近のすべての北条方の城を攻め落とした。
それを聞いて秀吉は小田原城を眼下に見下ろす山上に城を築くよう命じた。
2か月後には石垣山城が完成して秀吉の本拠となった
これが伝説の石垣山一夜城と呼ばれる城である。
秀吉にとって最大の心配事は徳川家康が北条に寝返るかもしれないということであった、もし秀吉陣中で3万の徳川軍が反乱を起こせば痛恨事になる恐れがあった。
これを俗説では「秀吉と家康の石垣山の連れション」として有名なエピソードである、もちろん創作に決まっているが、改めて書いてみよう
秀吉が家康を誘ったという
「大納言殿、儂はもよおしたのでどうじゃ、連れションなどしようではないか」、家康は唐突な申し出に驚いたが
「御供いたします」と言って城から出て、小田原城が眼下に広がる土手際で二人並んで連れションをした
秀吉は全くの無防備で、女子にはわかるかどうかだが、両手もふさがっている
秀吉が家康に言った
「小田原城は初めて見たが、なんとも壮大な城であるのう、これでは謙信公が10万で攻め寄せたとて落ちぬ」
「まことに、その通りであります」
「ところで北条氏直(氏政の嫡男=北条家5代目当主)は大納言殿の婿でありましたなあ、降参後はいかがしましょうかな」
「できることなら命ばかりは、お許し願えれば」
「ふむ、だが北条家の主を許せば家臣たちに示しがつき申さぬ、困ったのう」
「娘婿であれば無理を承知でのお願いにござります」
「もっと簡単な方法がある」
「・・・それは」
「今、そなたが儂を、この崖から突き落とせば北条も助かるし、もしかしたら天下が大納言の手に入るやもしれませぬぞ、いかがであるか」
と、秀吉は家康の目を見つめた
その眼はまことに恐ろしい目であった、さすがの家康も一瞬ひるんだ
