「実を申せば、我らも困っております、大方の大名衆も戦には辟易しておるのです、だがそれを言えば殿下に殺されかねませぬ、我が国は腹切りなど平気で命ずる風潮でありますからな」
「恐ろしい人間じゃ、秀吉は幾つになるのか」
「今は50半ばでありましょうか」
「まだ命は続きそうじゃな、何か互いに救われる方法はないのか小西殿」
「まずは停戦をすることが最初かと、それから平和交渉に入る、これで一年ほど時間をかければ殿下の心境も変わるやもしれませぬ、まずは時を稼ぐことが一番でござろう」
「ふむ、儂も義州に戻ったら王様に相談してみるか」
「それが良いかと、明国が出てくればもはや止めることは叶いませぬ、我らはもともと朝鮮国とは仲良く交易していた身です、元のように戻ることを願っております」
「よお、わかった、では我らの帰路の安全を頼み申す」
左議政らは兵士と共に平安道へと消えていき、日本軍は平壌城に入城した
「米がありますぞ、それも大量に」平壌城内をくまなく調べた兵が報告に来た、ここで籠城するためにため込んであったらしい米が大量に見つかった
左議政が言っていた兵糧米であった
さすがに敗退するのに持ち帰ることもできず、下手に火をかければ日本軍は怒って皆殺しにされる恐れもあったから、そのまま置いて行ったのであろう。
「これはありがたい、兵にも腹いっぱい食べさせることができる、兵たちに伝えよ『城下で狼藉する者は即刻打ち首にする、米は十分にあるから安心せよ』
そう伝えるのじゃ」
朝鮮水軍は初戦で日本の不意打ちをくって、たちまち壊滅したことは既に書いた、慶尚道とは慶州と尚州を併せた地域で、南道と北道がある
道とは県だと思えばよいだろうが少し広い、北道と南道に別れて10いくつ
県というより少し広いから北陸、東海、北関東の感じだろうか。
この元均将軍の持ち場は慶尚道で、そこより西へ行くと全羅道がある、北側は黄海に面した西海岸、南側は日本海に面している、それぞれ全羅北道、全羅南道という。 全州と羅州を併せた地域である
この全羅道にも水軍があり左衛艦隊がある、朝鮮にとって幸いだったのは、日本軍が全羅道に攻め込んでこなかったことである。
北道の道都、全州は黒田の三軍に攻撃されたが、南都の光州.羅州は無事であった、晋州城も敵中で頑張っている。
そのため水軍の李舜臣(イ・スンジン)将軍は水軍を実戦準備することができた。
「よいか皆の者、陸戦ではわが軍は苦戦しておる、今これを挽回できるのは、朝鮮広しといえど我らだけである、我らの任務は重いが亡国の危機を救うためには三度死んでも四度生きて敵を全滅させねばならぬ
倭人は手強い、だが我らの方に地の利がある、これより南海に出撃して倭軍の船をことごとく沈めるぞ」
李将軍の力強い演説に今まで委縮していた朝鮮兵たちは奮い立った
「われらが朝鮮を救うんだ、李将軍に従えば敵なしだ、やってやろうじゃないか!」季節は梅雨の終わり、初夏である
朝鮮半島の南岸は最も西の木浦(モッポ)から、東の都市、釜山まで300km、日本の三陸海岸同様のリアス式海岸となっていて、半島と大小の島が複雑に配置されている、暗礁も多く、潮の干満も大きい、乗り上げて難破する船も少なくない
海流も半島と島の影響で複雑になっており、時間と共に海流が真逆になったりと、この海域に慣れていない日本の水軍には厄介な海域である。
さすがに釜山近海は貿易ルートであり、日本人もわかっているが巨済島(コジェド)から西は危険水域であった。
「よいか、何としてでも倭船をこっちに引き込むのだ」李将軍は、おとりの船団を巨済島沖に送った
5月7日「朝鮮水軍あらわる!」の報を聞いた藤堂水軍は50艘の船団で20艘ほどの貧弱な朝鮮軍船を発見した
「ふふふ、まだ朝鮮に水軍が残っていたか、海の藻屑にして呉れよう」
日本軍を見た敵船は踵を返して、西の方に反転して逃走を始めた
「それ追え」大砲を放つと一発が命中して、たちまち朝鮮の小舟が破壊されて沈没した、さらに追っていく
いつの間にか島と半島に囲まれた、玉浦の沖まで船団は来ていた、その時、島陰から大型の朝鮮艦が20隻ほど現れて砲や鉄砲を撃ちかけてきた
水軍の方が陸軍より装備が整っている、それはそうだ元均将軍の右衛艦隊が日頃から平和をむさぼっていたのに比べ、左衛の李将軍は毎日のように訓練を重ね、装備も最新式にする努力を怠らなかったのだから
いつの間にか小舟の船団は消えていたが、それは小島の裏を回って、日本軍の後尾に回り込んでいた、別の島陰からも軍船が現れ藤堂水軍は三方から挟み撃ちに会った
装備は日本軍が優れているが、朝鮮の梅雨の雨が降りしきる中、潮の流れに操舵もままならず、それを巧みに利用する朝鮮船に背後を襲われ危険な状態になった、岩礁に乗り上げて難破した船もある、あきらかに朝鮮の作戦勝ちであった、藤堂水軍はなんとか釜山まで戻ったが、被害は少なくなかった。
朝鮮水軍は麗水(ヨス)から東に基地を置き、釜山、泗川、巨済島に入ってくる日本船を襲って、物資の搬入を妨害した
これは日本にとって生命線を抑えられたことになる
「なんとしてでも朝鮮の海賊どもを全滅させよ」秀吉は海戦の敗北を聞いて怒った、自ら6月には渡海する気でいたのに、それどころでは無くなったのも癪にさわる
三成は脇坂の淡路の水軍と、日本の切り札、九鬼水軍に命じた
「巨済島沖の敵をまずは駆逐せよ、その後、済州島を攻めて占領するのだ
敵を巨済島より東に来させてはならぬ」
巨済島は西にある珍島(チンド)と並ぶ、南海岸最大の島である、昌原(チャンウォン)の僅か沖合にあるから、陸上への輸送の為にも重要な島なのだ
制海権をかけて日本も朝鮮も互いに50艘を超える軍船で向かい合った
玉浦沖で朝鮮水軍が勝利して1か月が過ぎた残暑の頃だった
朝鮮水軍は前回と同じく、島々の間に疾風舟を展開させて姿を見せない、大船は泗川の沖合にその姿を見せているが、大型船数隻は形が異様である、それは鉄板を貼った大きな盾を屋根の様に寝かせた船であった
日本船の方が圧倒的に銃が多いので、それを防ぐ目的と、座高が低いため速度が出やすく厚く固く作ってある、「亀甲船」と呼ばれた。
脇坂の軍船70艘が陣形を整えて進んでくる、朝鮮軍は南海島から舳先を南に向けて沖合に出ようとしている
先頭を行くのは将軍旗を立てたひときわ大きい軍船で、そこには李将軍が指揮を執っている。
脇坂の艦船も沖合に舳先を向けて巨済島沖を過ぎて向かってくる、互いの軍船が入り乱れた、互角の戦いが行われている
しかし後方の閑山島の入り江から、無数の疾風船が脇坂隊の後方から湧き出すように攻め込んできて火矢を射かけてくる、砲と矢が飛び交うが、風と海流の流れに熟知している朝鮮軍は明らかに有利な展開である
李将軍の采配が的確で朝鮮兵を奮い立たせているのだ
ついに半数近くを失った脇坂軍は撤退を始めた、朝鮮軍はそれを追う、すると巨済島の外島に潜んでいた朝鮮船が脇坂隊の横から火矢を射かけてきた、しかしこの時九鬼水軍が現れて朝鮮船に大砲と鉄砲を撃ち込んできたので、朝鮮の先頭はたちまち撃沈された、その間に脇坂隊は釜山に逃げ帰った。
九鬼水軍を待たずに抜け駆けした脇坂の失態であった、藤堂隊の敗北、脇坂隊の敗北で李舜臣将軍の名声は朝鮮に鳴り響いた
李舜臣 像
前方下には日本水軍を翻弄した李水軍独特の(伝説の)亀甲船