正妻の政所ねねは天下人となった秀吉に何も言わなくなった、怒っているわけでも嫉妬しているわけでもない、だが心のどこかが覚めている
ねねは、淀や京極と生きてきた道が違いすぎている、所詮は庶民階級の暮らしに慣れていて高家の者との交際は不得手である
秀吉がそれをわかっていて、朝廷などの儀式に出向くたびに、ねねではなく京極殿を連れていくことも知っている、だが嫉妬心も、自分に対する卑下の心もおこらない、むしろその方がありがたいと思うのだ
だから大名にしても苦労を共にしてきた前田利家、自分が育てた加藤、福島、黒田、宇喜多、木下秀俊(後の小早川秀秋)と今も親しみ
石田三成など近江長浜以後の家臣は遠ざけている、そんな生きざまは徳川家康と似たところがあり、近年、家康は江戸、大坂を往復するたびに政所ねねのもとにご機嫌伺いするのが慣例化している。
なぜか、ねねは秀吉のきらびやかな生きざまより、質素で堅実な家康に昔の秀吉を見るのであった。
大概の側室は秀吉の権力と財力に満足して従っている、淀殿も京極殿も過去の単なる武将の秀吉ならばここまで従順には従わなかっただろう
だが二人は他の側室とは違い、この世の上位の権力者の家に生まれ育った女だ、少なくとも贅沢や金銭に目がくらんで従ってはいない、淀が言ったように強い者に守られたいという気持ちがあって、秀吉にはそれがある。
並みの男では自分の値打ちも下がるというプライドもある、他の女たちをかしずかせる地位を手に入れることが出来る。
秀吉にしても日本中の男の誰もが手に入れられぬ、この世で最高の女から頼られている満足感が、秀吉の脳を痺れさせている
その女を自由にできる「男冥利に尽きる」満足である。
京極竜子といると、秀吉の萎みかけた夢が再び膨らんでいく、明日の活力が湧き出してくる、世間並みの老人意識がエネルギッシュな青年に蘇る
こんな日々が名護屋で続いている。
そして9月には石田三成から明との50日間の停戦の知らせが入ったのだった
それから10月には秀勝の死、淀の上洛と続き、朝鮮では相変わらず朝鮮国民の抵抗戦が続いていて気は休まらないまま、12月に天正から文禄元年に年号が変わり、一か月で文禄2年が明けた。
50日の明との停戦期間が終わった12月には、早くも遼東あたりに明の軍勢が集結しているとの連絡が入った。
同時に加藤清正から「兵糧が届かず、現地調達で凌いでいるがこれからの冬を越せるかはなはだ疑問である、先日は攻め込んできた朝鮮軍を撃退したが、負傷者に加え、病人も増えてきた、威鏡道の奥部は我らに同調した朝鮮同胞に任せたが、中部あたりの小城に割拠する家臣たちは飢えに苦しんでいる
なんとかしてもらいたい。 小西行長、石田三成の我らに対する差別は我慢の限界を越えそうである」と言ってきた。
秀吉は直ちに返書を書いて送らせた、これが加藤に届くには1か月近くかかるだろう
「威鏡道平定、あっぱれである、なれど今後は戦線は平壌、漢城に集中するようであるから、そなたが小西らとそりが合わぬのであれば鍋島を名代として、小西らと相談して遼東の明軍に対処するようにして、そなたも早急に漢城に入り敵に備えよ」そう伝えた。
1月早々、雪の降る中を、明と朝鮮の連合軍は5万の大軍で平壌城を囲んだ
激しい攻防が始まり15000足らずの小西軍はじわじわと城の要所を奪われ、堅固に補強した本丸に籠って鉄砲を撃ちかけると、明軍は城外に撤退した。
城方の死傷者は多く、このままでは3日は持つまいと判断して翌日の深夜に撤退を開始した、気づいた明、朝鮮軍、さらに平安道の義兵も追いかけてきた
殿軍は多くの損害を出しながらも、なんとか大同江を渡り開城まで撤退した
点呼すると15000あった兵が1万ほどにまで減っていた、その後もパラパラと敗残の兵がたどり着き12000ほどになった。
開城で小早川、黒田の軍団と再会して、ようやく一息つくことが出来たが、ここもいずれ危うくなるだろうと漢城まで撤退することにした。
李如松将軍が率いる明軍は平壌を落し、開城も奪い返した勢いのままに、漢城も占領しようと6万に膨れ上がった軍を率いて、漢城から15kmほど手前の碧蹄館に侵攻して、ここに陣を張った
しかし漢城に集結した日本軍も6万近くに膨れ上がり互角の兵力となった
九州の猛将立花宗茂が5000を率いて先陣を切り、敵の第一陣に真正面から突撃した、敵の先陣の多くは侵略大国の常とう手段で外人部隊を配置している
それは明が属国にした国から連れてきた兵で、戦意は著しく低い
元寇の時、日本に攻め寄せた元軍の水兵の大部分が、元が占領した高麗兵だったことでもわかる。
そのため戦意が高い立花隊はたちまち敵の先手を打ち破って、二陣、三陣と突き進んだ、桶狭間に突入した織田信長の戦法そのものであった
しかし明兵は鉄砲を装備している、本陣に近づくにつれ立花隊の損失は増えていく、ついに撤退を始めた
敵はどっと立花隊を追いかけたが、そこに第二陣の小早川本隊2万現れて追いすがる敵兵を攻撃した
先頭を走って来た朝鮮軍が真っ先に餌食になった、鉄砲の一斉射撃のあと、小早川隊の突撃が開始された、それは今までの敗北のうっぷん晴らしのように激しい攻撃であった。
小早川隊は深追いせず、軍を戻して陣を整えた。
緒戦に後手に回ったので、李将軍は挽回しようと総攻撃を行うことにした
そして2万を割いて、けが人多数の小西が守る手薄であろう漢城を急襲させる作戦を取った、しかし、放っておいた間者がそれを発見してすぐに総大将の宇喜多秀家に伝えた
「敵の侵攻路をすぐに推定して伏兵を配置するぞ、12000をもって隊を3つに分けて包囲できる布陣にせよ、小早川隊には敵に悟られぬよう、正面攻撃をしていただく、全軍で突入して血路をこじ開けていただけば左右に展開して後方に回っていただく、それを見て我ら本隊は13000で敵の本陣に突撃いたす
敵が逃げ出したら小早川隊は包み込むように退路から鉄砲で攻撃するように
地形を利用して、常に有利な位置を占めて攻撃せよ」
2万の漢城攻撃隊は、まんまと宇喜多の作戦にはまった、高台から待ち伏せしていた宇喜多隊によって手痛い敗北を喫した
同じころ、小早川隊が突撃を開始、予定通りに左右から後方に回ると、宇喜多隊が間髪入れずに突撃を始めた
まるで錐が穴を開けていくようなすさまじい突撃であった、さすがの李如松将軍も支えきれず後退した
そこに迂回した小早川軍が突撃してきた、鉄砲も放たれた、李将軍の馬が撃たれて将軍は落馬した、これを見逃さず小早川秀包の部隊1500が首を求めて攻め寄せた、しかし敵も将軍を討たせまいと必死に守る
そこに鉄砲が撃ち込まれて、明の兵は次々と討たれた。それでも人数に任せて押し返す、死闘だ、だが本陣に攻め込まれた明軍が崩れ始めた
そしてようやく新たな馬を得た李将軍は部下に守られて開城への撤退を始めた
日本軍は追わず、ここで勝どきを上げた
日本軍の死傷者は2500ほど、明、朝鮮の死傷者は1万近い大勝利であった。
明軍は開城も捨てて、平壌まで撤退した、日本軍も開城の再占領をしなかった
明軍の李将軍は大敗した上に自らも負傷して戦意を失い、遼東城まで退避した。
日本軍も勝ったとはいえ傷は深い、この先今回以上の敵勢が攻め寄せることを想定すれば、進出より守りを固めることの方に重点を置かざるを得ないので、開城は緩衝地帯のようになった。
