神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(177) 甲越 川中島血戦 4

2024年08月22日 09時32分30秒 | 甲越軍記
  時は天文16年 8月24日辰の刻、 両軍は 互いに鬨を上げ、弓 鉄砲の打ち合うこと 激しく 矢玉は 雨の降るごとく、 顔を上げることもできない
そのような時 武田勢の中より曲淵正左衛門、 三科肥前守、 広瀬郷左衛門ら勇士一番に槍を上げて、真一文字に突入する
 村上勢の中からも、 原田十郎左衛門、八木宗七、松野一斎が出でてこれに当たり、火花を取らして戦うが、 武田の勢いは強く、原田十郎左衛門は 広瀬のために 槍を突き通されて 討ち死にする、松野一斎は あまりにも強く 打ちかかったので 槍の穂先は 折れて 太刀を抜かんとする時に、曲淵これにつけ入り討ち取る
八木宗七は三科のために 突き倒される、 八木の兄 、安中一藤太は弟の仇を討たんと大太刀を上げて討ってかかるを、 武田方の藤代七左衛門、安中と打ちあい討ち死にする
これより 両軍入り乱れ 喚き叫んで討ちあったが、 村上勢は義清が奮戦して一歩も下がらず 死骸を踏み越え激しく戦うけれども、 武田勢は矛先強く 村上の 先陣はどっと崩れて 逃げ出した、 武田勢は 今ぞと二陣にも攻めかかる、村上勢の二の備えもこらえきれず一同に敗走した
板垣駿河守は士卒を励ましてなおも追い打ちすること急なれば、 村上勢は引き返すこともできず 散々に敗れて逃げ去ったので
板垣 は ここで 人数をまとめ、 打ち取った 首の数を数えると、 150 余りだった
駿河守は去年一子 弥太郎が 晴信から歌を書いた扇子をもらったが、それを読んだ駿河守は歌の意味が、駿河守の慢心を戒めるものであることに気づき、それを遺恨に想い、時が来たら、晴信の面前で討死しようと心掛けていた
此度も味方を離れて、敵陣の目の前で首実検をすること誠に不敵であった。

村上勢の先手として討ち死にした八木宗七は上杉管領憲政の幕下で上野の安中の弟であった
浪人して去年より村上の配下となる、八木の兄、安中一藤太は弟を討たれたことを無念に思い、物見として板垣の陣まじかまで行くと、板垣陣は首実検の真っ盛りであった
安中は陣営に戻り、義清に「板垣駿河は味方より離れて、大胆にも陣の前にて首実検をやっている有様は傲慢にて、しかも油断あり、これを討つは今であるから某に御勢を貸してもらえば、板垣を必ずや討ち取ってみせます」と言えば
義清も「もっともなり」と言って、安中に士卒二手を与えた、一藤太は大いに喜び勇んだ、そして旗差し物を巻いて静かに板垣の陣を迂回しながら近づき、頃合いを見て一斉に鬨を上げて攻め込んだ
突然の敵襲に驚いた板垣勢は慌てふためいて右往左往とするところ、安中勢は切っては当たり、手先を回して討って回れば、板垣勢の手負い死人数知れず
板垣は慌てず、馬回りを四手に分けて四方に当たらせる
しかし味方陣より離れていたために小人数であったがゆえに防ぎかねて見えるところに、一藤太は屈強の若党十人ばかり引き連れて、板垣に打って懸かる
安中の士卒、左近丞は板垣の顔を見知っていたので、「これこそ板垣なり、討ちまらすな」と言えば、千介、甚介、上条織部、四方から槍をつければ、数か所の傷を負っている板垣は神心も乱れて、ついに討ち取られる。
村上勢は安中勢が板垣の首を上げたと聞き、勢いづき武田勢の二陣に向かって面を振らずに一気に攻めかけた。

グッドタイミング バッド タイミング

2024年08月21日 18時10分04秒 | どうでもいいこと
 私の日記によれば日中に雨らしい雨が降ったのは、7月25日の夜中から朝への大雨が最後のようだ、だからもう1か月くらいまとまった雨が降っていない
江戸時代なら飢饉だろう、そのくせ川の水はそこそこ流れているから、山の方では多少なりとも雨は降っているのかもしれない。

日中の日差しの暑さと、蒸し暑さは半端ない
毎日最低気温は25度、最高は30度以上の真夏日が続く
例年であれば裸で暮らし、暑ければ水風呂に入り、シャワーを浴びて暮らすが、体力が落ちている今年は日中はエアコンを除湿モードで使い、夜は扇風機で暮らしている
我が家は女房殿と息子が居るが、この二人の体質は私とは正反対で、扇風機だけでこの暑い夏を過ごした
というより暑さに強い体質らしい、車に乗ってもこの暑さの中エアコンをつけない、私が居間のエアコンをつけている時は近寄ってこない
私が居なければ、エアコンを止めてテレビを見ている、羨ましい限りだ。

退屈しのぎに 病院へ行って 皮膚科の検査を受けようかと思った
車が ないので バスで 行こうと思って 時刻表見たら 30分後にある
家からバス停までは 3分なので 余裕で間に合った
外は 暑いというのではなくて 蒸し暑い サウナ風呂に入ってるのと同じだ
病院までは バスで8分 すぐに着いた、 今日も どこの科も 患者がいっぱい待っている、 ところが 皮膚科だけは もう終わったのか 1人もいない
窓口へ行ってみたら閉まっている そして スケジュールを見たら 今日は午前中はなくて 午後から、 午後からなのは 水曜日だけだった、 なんてタイミングが悪いんだろう
ここにいても仕方ないから 帰ることにした だが、 帰りのバスが 何時なのかさっぱりわからん、 だいたい2時間に1本だから 下手したら相当 待たなければいけない
時刻表を 見たら 別ルートの バスが 10分後にあった、またまた タイミングが 良い、 自販機で ドリンクを 買おうと思って 小銭を入れたが 何度やっても全部落ちてくる 結局諦めた
帰りのルートのバス停は 自宅から1分半、 一番近い停留所がだった、暑いから近い程助かる
帰ってきたら ちょうどドジャース戦が始まるところだった、 今日は タイミングが良かったのか 悪かったのか 。

とうとう田舎町にも新札がやって来た、なんかペラペラで値打ちが無い感じにも思えるが、この手触りはドラマ「舟を編む」ではないが辞書の紙なら良さそうな感じ。
だけどホログラムですか? あれ面白い、一万円札の渋沢栄一の顔が左右についていてくるのが面白い、それにきれい。


これ番号が面白いので、とりあえずストックしました
左から読んでも、右から読んでも373373
そして3と7だけ、あとは語呂を言えば「みなさん、みなさん」ですね
ではみなさん、おやすみなさい。

The Tremeloes - Silence is Golden

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(176) 甲越血戦川中島 3

2024年08月21日 08時31分08秒 | 甲越軍記
 信州 猿が馬場 峠の 浦野城主 浦野民部允は 、村上に属していたが密かに信州 内山城の武田の重臣、飫富兵部少輔虎昌に内通し「晴信君が当国に出馬されるなら お味方に参ります」と伝えた 
晴信は碓氷峠合戦の時に、同年8月2日 晴信は甲府を発ち同月6日に、上州上杉家と言い合わせて武田家の陣を妨げた佐久郡志賀の城主 笠原信三郎を攻め落とし笠原信三郎を打ち取った
 その後、飫富の内山城に立ち寄り、1万人余りを引き連れて砂原峠から 上田原に着陣した
このこと保科の村上義清に伝わると義清は大いに怒り、笠原新三郎を討ち取られ 浦野民部は武田に内応して当家に敵対すること返す返すも悔しいことなり その上、去年は 真田幸隆に謀られ一騎当千の武者を多く打たれたこと、このままでは信濃の味方衆もいつ離れていくかわからぬと、 今度の合戦においては 晴信の旗本に切り込んで自ら勝負を決するか、真田の首を貫くかの 戦をせんと 七千騎を引き連れて葛尾の城を発った
千曲川を打ち渡り、上田原に陣を構えた、日頃は 1万にも及ぶ 軍勢であるが この度は 信頼できる者たちだけを引き連れたため、 軍勢は少なくなった
武田晴信は、これを聞いて板垣駿河守を先方とし二陣に飫富兵部少輔、 小山田備中 、小山田佐兵衛、 武田典厩(晴信の弟)三陣は大将武田晴信、 旗本の後備には原加賀守300余騎をわざと物見のように展開させて 備えとする、 これ 山本勘助の軍術「しまりの 備え」と名付けた
 真田幸隆は先陣を望んだが、去年 真田の策で、村上の 500騎を 討ち取ったばかりであり、 村上が真田を見れば 目の色を変えて攻め入ってくることは間違いなく、真田が討ち取られることを晴信は恐れ、 あえて真田を右の脇 備えとした。

抗がん剤治療 緊急 中止

2024年08月20日 17時35分56秒 | 病気と健康
 今日から 第3回目の 抗がん剤治療が始まる、 治療室に入ったら 私よりちょっと年上に見える色の 黒い おばちゃんが いた、 そして 独り言のように「 この部屋に来るようになればもうおしまいだ な」などと言っている
ベッドが10台横並びだ、時間がかかるからテレビがそれぞれにあって、無料で見られるがイヤホンは持参しなければならない
今日は私と、彼女と、年配のおじいさんの3人だけだ

 受付が終わって 血液検査に向かった 、順番が おばちゃんが一番 私が2番 隣同士になった 
病院では 名前 と 生年月日をいわせる それで気がついた、 このおばちゃんは 高校の時の同級生だった 、だけど 2時間の点滴中に色々話しかけられるのも嫌だから 知らん顔していた 
採血が始まったが 若い看護婦は 下手くそで 1回目は 失敗して 2回目は 2本取るところを 1本半で 血が入らなくなったと言って 中止した 
これで間に合うかどうか聞いてきますと言って 奥へ行った 、20分 待たされて 結果は もう1回 1本分だけ取る ということになった 
今度は ベテランの看護婦に 代わって あっという間に終わった 1回で済むところ 3箇所も 針を刺された
点滴治療室に戻って 血液検査の結果が 分かるまで 点滴ができないので 本を読んで 待っていた
 小1時間くらい 待っていたら ようやく結果が出て 担当の外科医が 説明に来た 白血球 赤血球などが 少なく、 白血球は 下限値の 75% 、赤血球は 下限値の 95%、 最も大切な 好中球実数 は 必要数量の 75% ということで 、前回よりも数値が明らかに下がっていた
今回 抗がん剤投与すると 危険な 状態だという 、yottinさんは がん治療ではなくて 予防治療だから 今回は やめても 問題はないということで、 ワンクール 3週間 お休みになった
 予防のために やっている 抗がん剤で 、 命を失うようなことがあっては 本末転倒 だから ということだ、僅かな何でもないような細菌に感染しても敗血症 などの 恐れがあるので 、私も 快諾した
 ある意味 ちょっと ほっとしたところもある この蒸し暑さの中で 抗がん剤治療するのは 少し きついところもあるのだ 
次回は 9月の 上旬 だから 少しは涼しくなるだろう 、ただ このまま帰してもらえなかった 
手術後 まだ 一度も検査をしてないので 次回のことも 含めて CT 検査 してから帰るように言われた 
CT も もう慣れたけれど 今回も 結局 造影剤 を 血管に 1分半 流すので また 注射だ、 ところが またこの看護師も下手くそで 2回 失敗して 3回目で ようやく うまくいった 、ここでも3か所針を刺されて、両手共に絆創膏3つずつだ
造影剤は 副作用ある 結構きつい 薬で 、体が 一気に 熱くなる、 1回目に 失敗したところに 少し 造影剤が 流れたので しばらく そのあたりは 熱かった、 結局 採血と合わせて 6回も 針を刺された 、2回で済むところを6回 だから 「これじゃあ ハリネズミ だ」と 皮肉を言ってやった
気の短い人間だったら 相当なこと言っただろう 、私は平和主義者だから ハリネズミ くらいにしか言わなかった 



これで 抗がん剤治療は 先送りになったので、抗がん剤の 終了も 順調に行っても 3週間 先延ばしだ 、10月まで かかる ことになった 
次回も 検査結果では 中止か 薬の量を減らして やるか あるいは 赤血球などの 数値はが基準値に戻れば 普通にやることになる
やはり ガン治療は 一筋縄ではいかない 、部屋を出る時に 同級生に「おい、Yさん、俺たち高校の同級生だよ」と言って顔を見せた、 向こうはマスクしている私を「 わからない」と言ったが 名前を言ったら「 あー 板前さんやってた人だね 」と思い出してくれた
 彼女も 癌のようで 私よりも 厳しそうだ 、抗がん剤も私より1週間長い3週間やって、1週間休みだと言う
頭の毛が だんだん 抜けてきて もう カツラを 発注したと言っていた、たぶん抗がん剤の種類も量も違うようで3時間くらいかかるらしい(私は2時間)
 まあ元気そうに大きな声で話していたのが 安心材料だが 同級生も かなりの数は 癌に かかっている 
10年以上 元気でやってるのもいるし 亡くなった人もいる「 そんな年頃ですね」 と 打ち解けた 担当看護婦 も 言っていた 全くその通りだ 、70代だからと言って 安心していられない




「舟唄」八代亜紀 高音質 1981年  私と同世代、昨年年末に亡くなってしまった、まことに残念だった

 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (175) 甲越10年戦争 血戦川中島 2

2024年08月20日 07時55分29秒 | 甲越軍記
 武田大膳大夫晴信は去年、村上義清と小県郡戸石の合戦(初編に記す)に武田方の危うきところを山本勘助晴幸の策略で逃れた上に勝利を得たことを、摩利支天の再来と褒め讃えた。

天文十六年二月十五日、八幡宮に社参して回廊にて晴信と勘助は孫子の五事七計、或いはニ五の妙、深々の戦問答あって下向した。

馬場民部少輔景政、秋山伯耆守晴近をもって信州伊奈へ発向させて村上方の砦三か所を攻め落とし、秋山伯耆守を信州郡代とした。
村上義清は、これに備えて幕下の士、楽岩寺右馬介、布下新左衛門尉、依路右近進らに信州海野平の乾、上田筋の北、時田山の東方の険阻な土地に三か所の砦を設けさせた。

晴信はこれを知って、この砦を踏みつぶしたのち村上の本拠保科を攻め落とさんと板垣駿河、浅利式部丞の両将に検使として原美濃守虎胤を指し添えた
三将は海野平に陣を構えた。
板垣駿河守は物慣れたる騎士六十騎を選び、歩卒は一人も引き連れず大斥候として敵陣近くで見届けるべしと命じた
駿河守の甥、萩原余佐左エ門が進み出て、「足軽備えも、弓鉄砲衆も連れずに騎士だけで行くのは甚だ危険なので、今日は先物見の士、一両人にて探らせてはいかがか」と諫言すれども聞かず、騎士を大物見に出立させた
すると荻原が案じた通り、楽岩寺右馬介がこれを見つけて二百余騎を左右に従えてまっしぐらに打って出る
物見の者たちは驚き、徒歩も鉄砲隊も無ければ、ただひたすらに逃げるのみであった
萩原の理屈の同調した原美濃守は、大物見の危うきを心配して十騎を先頭に立てて、自らは畔の陰に埋伏して物見の帰りを待っていたところ、大物見の六十騎、楽岩寺勢に追い立てられて逃げて来た
これを見て敵のまじかに馳来るを一斉に立ち上がって左右から迎え打てば、自ら敵四騎を打倒し、これに続いて同心、下新兵衛も一番に一騎を突き落とす
美濃守、ここで馬に乗り大音声にて味方を励まして突き進めば、たちまち敵二十七騎まで突き落とした
楽岩寺勢は、この勢いに押しまくられて少しためらうを見た大将の楽岩寺右馬之助は敵味方の間に割って入り、軽々と勢を引き上げた。


今日は病院の歯科を受診

2024年08月19日 17時32分51秒 | 病気と健康
 今日もまた朝から暑い日差しだった
第二クールも今日で終わり、明日から第三クールに入り、明日は抗がん剤点滴の日になる
今日までの一週間は抗がん剤の休養日だったので、まだ一回しか行っていない歯科に行って、二回目の治療を受けた
一回目は前に書いたが、レントゲンを撮って治療の方針を決めただけで、何もしなかった
今日は、これまでの詰め物を外して、虫歯の部分を削り新しい詰め物で仮処置までやった

10時半からの予約だったので10時に受付に行ったが、家を出る前に小トラブルがあった、それは保険証が7月31日で切れていたのを気づいたのである
それで新しい保険証が来ていたはずなので探したが見当たらない、時間はもう9時半、ちょっと焦ったがマイナンバーカードがあるのに気づいて、これが今後の保険証代わりになるのを思い出して、受付の仕方をネットで見たら、暗証番号(なんでもかんでもこれでノイローゼになりそう)が必要
そんなのとっくに忘れているから、またピンチ、保険証が無ければ10割支払いだから、場合によっては今日は中止まで考えた。
どこかに暗証番号を書いたはずだと、思い当たるところを探し回ったらあった
ホッとした。 
暗証番号は個別に変えてあるから覚えられるものではない、いつもこれで手続きが停まってしまう、今日はなんとか見つけて安心した。

病院へ行くと、昨日まで病院はお盆休みと週末でずっと休みだったので、k評は超満員、すでに支払いの窓口には20人くらい並んでいる始末
待合所も、どの科も人であふれている
歯科の前も10人くらい待っていた、受付に行って保険証が見当たらないからマイナカードを使いたいがどんな手続きが必要か聞いた
すると「それは一階の支払い窓口でやってください」というので「じゃあ治療が終わってから手続します、ここでは保険証必要?」と聞いたら、歯科専用の診察券だけで良いと言ったので助かった。
どうせ30分以上は待ち時間があるからと、小説持参で行き、読み始めた
するとすぐに受付嬢が私を呼んで「今、支払い受付にyottinさんの保険証とマイナンバーの事を連絡しておきましたから、そっちに行ってから『歯科から連絡あった』と言ってもらえばスムーズに受付できますよ」とありがたいお言葉
本当に病院の心遣いが良くなって感心している

この病院も全国の過疎地同様大赤字で、近年中にも閉鎖して中核都市の病院との合併話もチラホラ出ている
中核都市までは50kmも離れているから緊急や妊婦はたいへんなことになる
市の議会の様子を見たが、議員の中にはこれを取り上げる者も何人かいて質問したが、関係課長はお決まりの答弁、市長も「今はまだ・・」みたいな呑気な答弁だったので、これから本当にどうなるか心配である。
こうなれば地方は富山も新潟も長野もなく互いに助け合うようにしなければ、どちらも消滅する危険がある。
金沢、富山、長岡、新潟、松本には大学病院も日赤もあるから田舎の人間がもっと使いやすいようなシステムにしてもらいたいものだ。

順番が来て、レントゲン写真で再確認、私の目の前にあるからよく見える
抜歯した歯は一本もなく見た目は一応28本揃っている
だがレントゲンを見ると深めの虫歯が5本、中くらいが2本、浅いのが2本ある
いずれも治療済みだが、4本がボルトを埋め込んであったのを始めて知った
これは全て町医者で治療したものである、病院の医師は今回の治療に際して、このボルトを抜くかどうかで悩んでいたが、いざふたを開けてみたら、ボルトのねじ山は切断されていて抜くことが難しいことがわかってあきらめた

町医者ではだいたい20分くらいの治療で毎週1回、4回くらい通って終了だが、病院は小一時間かけて治療する、もっとも今まで別の医院で行われた治療の修正だから慎重になるのだろう
本当は町医者でやれば良いのだが、抗がん剤治療中なので町医者では日程が難しい、それに外科との薬や治療の兼ね合いもあるから、同じ病院内でやった方が安心なのだ。
この治療があるために、治療も3週間に一度くらいのペースである、回数は4回らしい

町医者との違いは、歯の詰め物を詰めなおしたとき、町医者は消毒しながらピンセットでいろいろ詰めるが、病院はなにかの機械でセメントを流し込むような感じで埋めていくらしい(目隠しされていて見えない)
これは新しい感触で面白かった。
さて明日からはまた抗ガン剤か・・・皮膚科ももう一回行く必要があるし、まだまだ病院とはおさらばできない。



街の灯り/堺正章

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (174) 甲越10年戦争 血戦川中島 1

2024年08月19日 08時52分37秒 | 甲越軍記
 信州に於いては、甲斐から信州を侵した武田大膳大夫晴信と信州の有力豪族、村上左衛門義清の合戦が止むことなかった。
武田晴信より信州佐久郡岩尾の城を預かる真田弾正忠幸隆は、天文十五年十一月、板垣駿河守、飫富兵部少輔、小山田備中守を岩尾に招き、「晴信公が某を召し出されてより今日までに受けた御恩は泰山の如し、生涯をかけても返すことが出来ぬほどである、某の心の切なることは近隣に城を構えている飫富殿、小山田殿にはわかるでありましょう
某も方々に劣らぬ働きで、お屋形様の御恩に報いたいと思い、ここに一つの謀を考えました、かって信虎公の時、萩原常陸介殿が福島の多勢を少数にて勝利を得たと聞き、某も少数にて敵の多を打ち破る策を考えた次第です
それを皆さまに披露してご意見を聞きたいとお招きした次第であり申す」と三将に囁けば、三将も真田の謀に同調して数刻の密談をしてのち退去した。

真田幸隆は、かっては村上義清の葛尾城に近い真田の庄に城を構えていた信州郷士であれば信濃武士にも知故多く、その中の須野原若狭守、同宗左衛門尉は武勇才智ある兄弟であった、真田幸隆は彼らを招き、味方に引き入れて謀を授けて葛尾城に送り込んだ
彼らが真田に招かれたことは既に葛尾城にも聞こえていたが、両人は村上義清に対面して言うには「某、武田の武威に抗しきれず、真田に招かれて武田方に属するよう言われて、その約束をしました
されども真田弾正忠の態度は傲慢で、某らを塵芥のようにしか見ず、毎度人前に出ては恥辱を被ること耐え切れず無念の思いであります
されどもわれら非力であれば、これに抗うことも叶わず兄弟で密に議して、君の力を借りて恥辱を濯ぎたいと願う次第です
哀れなる兄弟の心底を察し助勢を願えたなら、真田の居城岩屋にお味方を引き入れて真田めを一時に討ち取り、城を奪うのも容易かなと」そう言って熊野牛王に起請文を書いて村上に呈した
義清は合戦の勝ち負け容易につかぬことに焦っていたが、これを聞いて大いに喜び、薬師寺右近進、清野六郎三郎など五百人を選って須野原に渡した。

兄弟の忠節を喜んだ義清は所領の朱印に太刀を添え、更に鞍馬を与えると、兄弟は太刀のみ頂き、朱印と鞍馬は成功の暁に頂戴いたしますと受け取らなかった
精兵五百を引き連れて兄弟は岩尾の城の二の曲輪に引きこもった
須野原兄弟は薬師寺に「ここにてしばしお待ちあれ、某は本丸に行き真田を謀り申す」と出ていき三の曲輪に入った、そして二の曲輪と三の曲輪の門を固く閉じた。
村上勢の兵らはやがて様子がおかしいと思い始めた、その時、三の曲輪より真田の兵が一同に現れ二の丸の頭上から一斉に鉄砲を放った
「謀られた」と気づき曲輪から出ようとするが門は固く閉じて袋の鼠、一人残らず五百の兵は撃ち取られた。

 74歳 この頃思うこと

2024年08月18日 17時45分29秒 | ライフスタイル
 人生は早く流れて短い年月だと思うようになったのは、この頃
気が付けば74歳、ついこの前、古希だ70歳だと言ってたのに、もう70代半ばに差し掛かっている
何といってもコロナ騒動が、我々の人生を意味のない無駄遣いさせた
あれに気をとられているうちに貴重な年月が失われた
あの国を挙げての大騒ぎは一体何だったのだろうか、今は一番騒いだテレビ、医師、政治家が何もなかったかのように口をつぐんでいる

過ぎ去った年月は取り戻せない、そして日常に戻りかけたら突然のガン宣告
これでまた半年、何もできずに家ごもりだ
だけど、この病気になって考え方も生活もすっかり変わった
自分は永遠に死なない気でいたが、ここにきてやはり自分も死を逃れない存在であることを認識した
そうなると人生が定まった、心が定まった、悔いのない人生を送るために考え始めた
命は天命に任せて、自分は生きている限り精一杯やりたいことをやればいいと思った、なにか今までのごちゃごちゃした複雑な思いは消え去って、ものすごくわかりやすくなった
人生が見える、見えて来た、自分がやるべきこともすっきりと見えている
もう、あれだこれだと探し回ることは無い、やりたいことが向こうからやってくる、だから病気がやって来たのも満更意味がないわけではなく、悪いことでも無いと思う、きっと人生の足しになる意味があってやって来たのだろう

今朝、年配の女友達から電話が来た、所帯を持った子供(50近い)に絶望したと嘆く、「もういいかげん子離れの時だよ」と言ってやった
「あんな夫でも、今となれば長生きして一緒に暮らせていたら良いと思った」と故人になった旦那の事を言うから
「それは旦那を粗末にした自業自得だよ」と言ってやったら
「何言ってんの、私をさんざん裏切って家にもほとんど帰ってこなかった人なのよ」と言うから「じゃあ居なくなって、せいせいしたんじゃない」
「まあ、そうなんだけど」と何が何だかわからなくなっている
今は一人暮らしでいる、「無い袖を振って大学まで出して、立派なお嫁さんももらったのに、『かあさんの面倒をみるほど楽じゃないから、母さんは自分の事だけは自分でやってほしい、僕らの事は何もしてもらわなくても良いから』と言うんだよ」と嘆くから、「息子なんか当てにならない、息子さんが言う通り、自分の事だけ考えればいいんだよ」と言ってやった
「そうだね、今までは安定収入がない息子を助けようと援助してきたけど、こんなことを言われて、もう嫌になった、お金だっていろいろ我慢して使い道を節制したけど、これからはやりたいこと、食べたいもの、行きたいところに全部使うわ」
「そうそう、やっと俺と一致したね、もうお互い先も見えたから自分の為だけに生きればいいと思うよ」
「そうだよね、そうしよう、あんたの病気が治ったら軽井沢へ連れて行ってくれない、もちろんAさんも誘ってだけど」
「いいよ、治ったらどこでも行って、うまい物を食べてリフレッシュすればいい」と答えた
日帰りドライブだが、やはり私は一人旅より、連れとワイワイ言いながら遊ぶのが好きだ
私より年上の女性は夫が先だった人が多くて、はたから見れば優雅な暮らしと趣味に生きているように見えても、孤独な人が多い
私も年上の人といるとカッコつけなくてよいし、気楽なのだ、だから年上の友達は男女問わず多い

ここまで来たら理屈無しに楽しむ、楽しい日々を送る。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (173) 長尾家 86

2024年08月18日 06時07分28秒 | 甲越軍記
 長尾の旗下、竹俣三河守、士であったとき一つの名刀を得た
これを竹俣長光、または小豆長光(あずきながみつ)と言う
この名刀の出自は越後の国の百姓の家に代々伝わるものであった、当の百姓、これを大事にもせず常に山に入る時、里に出る時も腰に差して出たが、ある日、木を切るために山に入った
俄かに雷鳴がとどろき、切れ間なく数十の雷鳴が鳴り続けて、今にも百姓の頭上に落ちるばかりであった
百姓は是を恐れて、刀を抜き頭上に差し上げた時、雷鳴一声すさまじく、たちまち百姓の頭めがけて落ちて来た
もはやこれまでと思ったところ、雷はこの刀に当たり再び天へと戻っていった
百姓は奇跡的にケガも無く、ようやく人心地ついて刀を見れば、切っ先の先頭より一尺ばかり血のりが付いていた、あらためて見直せば百姓の首にも衣にも血を被っていた
百姓でさえ、この刀の威徳であることを思い知った。

ある日、百姓は小豆を売ろうと赤豆を袋に入れて背負って里に出た
この袋、少し破れていて、そこから一粒ずつ小豆がこぼれて百姓が腰に差した刀の鞘に当たっては道端に落ちていく
おりしも所用でこの場所に来ていた三河守が通りがかり、百姓の後ろを歩いていたが落ちてくる小豆に気付いて拾い上げると、どの小豆もまことに見事に二つに切れている
三河守はこれを不思議に思い百姓を止めて、この刀を銭にて求めて小豆長光と称して秘蔵した。
竹俣の所持であれば、これを竹俣長光とも言う。
特に長光愛好の謙信はこの噂を聞き要望あったので、竹俣は越後平定の祝いとして、これを謙信に奉る。

この刀が川中島合戦の時、謙信自ら太刀打ちあったことは三編、川中島合戦の条にて記す
後に景勝の代になって、これを京に上らせて拵え(こしらえ)をしたが、一年ほど経ってこの刀、拵えが完成して越後に戻って来た
景勝は大いに喜び、家老直江山城守、本庄越前守などの家臣を招きこの刀を見せれば、皆々口をそろえて「さすが都の水で研げばかように見事に仕上がるものか」と絶賛した。
ところが元の持ち主である竹俣三河守は刀を見ると「これは偽物である、急ぎ京に行き取り返すべし」と言った
景勝は「いかなることか」と問えば、竹俣は「元の刀は、はばきより一寸五分上にの鎬(しのぎ)に馬の尾、一筋通すほどの穴あり、差し面より差し裏へ通る穴なり」と言えば景勝は驚いて、ただちに竹俣を京に上らせた
竹俣は京に上ると、他国の人に作らせた備前長光の二尺八寸から三尺の売り刀を訪ね歩いたところ、果たして清水の南坂より持ち来る刀が正真正銘の小豆長光であることがわかった
三河守は偽物をつくり景勝をだました者を訴えて、この刀を取り戻して越後に帰還した。
のちに、この刀を豊臣秀吉公に奉じた。

(編者速水春暁斎注 二編に出すところ初編の甲越軍記の終わりを差し置いて、長尾景虎入道謙信の出生から天文二十一年の越後平定までに置き換えたのは、その続きを見やすくするためである。
この条より謙信が村上義清に頼まれて武田信玄との合戦に及ぶこと記さんが為なり
天文十五年の信州での村上、武田の取りあいを記す、これ初編の十二巻目の終わりに続けるためである見る人、年歴の違いを不審がることなかれ)



大谷不振、ドジャース首位の座守れるか

2024年08月17日 18時29分15秒 | 野球
ドジャースが5連勝のあと、ピシッとしない
昨日はハドソンがリードの終盤に逆転されて負け、今日は最近調子が良いバンダがリードの6回に1点差まで追い上げられた
ベッツが戻って打線に活気が出て、下位打線も打ち出したのに投手陣がふがいない
真っ向勝負で 打たれるのは 我慢できるが フォアボール を 連続で出した あげくに 長打や ホームランを打たれる のは 頭にくる
クローザーが定まらないのに、中継ぎ陣もバタバタ、勝てる試合を負けている
クローザーだったフィリップスは監督の信頼を失い懲罰的にも見える使い方をされて腐っている?
そして好調な打線の中、大谷と髭ヘルナンデスの二人がスランプ気味
大谷は.305くらいから.290近くまで落ちてきて三冠王も遠のいて来た。
相変わらずチャンスに打てない、最近はホームランも打つが、打率が1割台
素人目には 第一 ストライク が 第2 第3 ストライク より 打ちやすい ボールに見えるが、打つ気無いように見逃すし、 第2 第3の 外に 逃げていく ボール や まっすぐ落ちる 難しい ボールに 手を出して 三振することが多い
あと40試合くらい、このままでは大谷個人タイトルだけでなく、ドジャースの地区優勝も危ういぞ。
今日はコーペックがクローザーとして1点差を三人ぴしゃりでドジャースで初セーブ、でもクリンナップとは対戦していないから、本物かどうかわからない、クローザー決定と言うには早計か
なんとか3連敗を阻止したが接戦、見る方はスリリングで面白いけど、負けだったらやっぱり頭にくる。