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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

8月は日本の対外戦争を考える

2024年08月10日 17時47分33秒 | 日本史
 わが日本国の歴史は第三十三代推古天皇の御代、西暦で言えば590年頃からある程度信頼に足る資料が現れる、推古天皇の時代の有名人と言えば聖徳太子である。
三十一代用明天皇の二子で、皇太子となり推古天皇の片腕として法隆寺建立に寄与し、冠位十ニ階、十七条の憲法、遣隋使など様々な活躍をした。
ライバルは推古天皇の叔父、蘇我馬子、聖徳太子が亡くなると蘇我氏によって聖徳家は滅ぼされてしまう。
これは内乱であるが、この時代は大陸では隋の二代皇帝煬帝の時代(隋は二代で滅び唐に取って代わられる)、日本とは平和外交であったが、朝鮮半島は三国時代で、日本(倭国)と何らかの関わり深い「任那(みまな)」の地を巡って、任那を奪おうとする南東部の「新羅」相手に半島に出兵して戦った。
それ以前にも、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后が男の姿で半島に攻め入った伝説などがあり(四世紀前半の頃らしい)、この神話時代ともいえる頃から、倭国は朝鮮半島に渡って戦をしていたらしい、これが最初の外国との戦争であろう。

鎌倉時代後半には、世界制覇を狙う大陸の大元国(モンゴル)が、占領した宋や半島の高麗の兵を使って日本占領を企てて2度も九州博多あたりに攻め寄せたが失敗して撤退する戦争があった。
逆に16世紀末には豊臣秀吉が明国を従えようとして、大軍で朝鮮に渡り、抵抗する朝鮮軍や明軍と二度にわたり大戦争を行った
一時は朝鮮半島全域を占領したが、朝鮮戦争同様に大陸国家が出てきて押し戻された。 秀吉は戦争中に亡くなり、この侵略戦争は失敗に終わった。

その後、スペインやポルトガルもメキシコや南米、インドやフィリピン、東南アジアを武力で占領して日本も占領しようと企んだが、二百年以上国内戦争を続けて来た日本は、そのとき信長、秀吉、家康と言う戦国最強の覇者が居た時代で、逆に秀吉は朝鮮を蹂躙し、スペインが占領していたフィリピンにも攻め込むほどの勢いだったので、当時最強のスペインも手が出せずに終わった。

江戸時代になると鎖国が二百年以上続いた、そして明治維新で日本は帝国となり富国強兵に励んで、先進国に追いつけと軍備を拡張した。
そして1894年には「眠れる獅子」と言われた東アジア最強の清国と戦争になり、なんと完勝して多額の賠償金を清から獲った、これにより清国は弱体化して漢民族の蜂起により間もなく滅ぶ。
(清国は漢民族の国家ではなく、中華を占領していた満州人国家)

勢いに乗った明治政府は、こともあろうに1904年満州や朝鮮の権益をロシア帝国と争った、今でいえば今のアメリカ相手に戦争するのとあまり変わらない(核抜きで)、当時のロシアは世界でも五本の指に入る強国、生産力、軍事力、国力すべてにおいて明治政府の10倍以上の力があったという。
ご存じの通り、同盟国イギリスの援助もあり、明治政府は海軍が日本海でバルチック艦隊を100:0で破り、東洋艦隊をも全滅させた
陸軍はロシアの5倍以上の戦死者を出してロシアを追い払った。
(ロシアでは革命の兆しがあり、日本との戦争に集中できない事情があったようだ、結局帝政ロシアは赤色革命で世界初の社会主義国家ソビエトになってしまう)
この二大戦争に勝ったことで日本は1910年朝鮮国を日本に併合して中国進軍の足掛かりとした。

アジア最強と言われた清国、世界最強のロシアとの戦争に勝った明治政府の流れは、昭和に入って第二世代が受け継ぐ
軍備も世界の列強に次ぐ規模となり、精神面では最強国家に二度も勝ち、しかも無敗、日本こそ世界最強との意識をもった軍人は多かったのではないだろうか、ましてや国民は大日本帝国万歳である。
「ぐずぐず言う国は叩き潰してしまえ」くらいの意気込みとプライドが芽生えたのではないだろうか・・・知らんけど。
そして満州に大日本帝国の傀儡政権を誕生させて、二百万ともいう日本人が満州開拓に渡った。
満州の関東軍百万の指導部は満州から中国国内に軍を進めて中国軍と戦争となったのは昭和一桁の時代
日本軍と協力していた満州閥の親分、張作霖を爆死させるなど関東軍の暴走がはじまり、日中戦争は泥沼化していく
そして、それを非難して日本軍の満州及び中国撤退を要求した欧米を相手に一歩も引かず国連を脱退する、今度はイギリスは敵側に回り、ソビエトとは日ソ不可侵条約が結ばれていた
(日本の敗戦が決定的になった20年8月に突如ソビエトは条約を破棄して満州に攻め込んで民間日本人を殺害、兵士は捕虜としてシベリア強制収容所に送る)

日本は欧州占領をもくろむヒトラーのナチスドイツと同盟を結び、いよいよ運命の大東亜戦争、太平洋戦争へと突き進む。
                 つづく



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (165) 長尾家 78

2024年08月10日 09時31分09秒 | 甲越軍記
 金津伊豆守、死を覚悟しての突撃なればすでに人にあらず、鬼人の如く当たるを幸いに斬りまくれば、宇佐美勢はしどろとなって近づく者なし
それを歯がゆく思った宇佐美の勇士、塚田嘉右衛門は名乗りを上げて、血糊が突いた大槍をしごいて、大将めがけて突いて懸かる
金津の勇士、松田主計、これを見て塚田に挑みかかった、互いに喚き合いかかりあうところに松田を助けんと澤鉄五郎が助太刀に入る
澤鉄五郎は大太刀を振り回して塚田にかかる、宇佐美の中からも土岐掃部、鉄五郎に打って懸かれば、互いに人も交えず戦うありさまは真に勇ましき限り

金津の勇士らは、そこここに戦って討死するもの三十人余り
伊豆守も槍をしごいて宇佐美の勇士らと戦うところ、塚田嘉右衛門は大将首を狙ってかかったが松田主計に邪魔されて、しばしこれと討ちあいついに松田の首をとり、それを引っ提げて再び金津伊豆を探した
遥か向こうに戦う金津を見つけ「大将首は我がものなり」と馬を急がせる
金津の残兵も僅かとなり、力衰えれば伊豆守も疲れて太刀筋乱れるを見て
嘉右衛門は「得たり」と一声発して近づく間もなく伊豆守の鎧の隙間を岩をも通れとぐさりと刺せば、その穂先は二寸ばかり背に突き出て、伊豆守たまらず槍玉に挙がって討死となる。
大将を討たれた残兵らも八十余騎、思い思いに戦いの中で討死する

この日、府中勢が討ち取った城方の首は二千五百余級、宇佐美駿河守は城内を見聞した後、討ち取った金津の首と二千五百余の首を棒に結いつけて、数百人の雑兵に持たせて府中へと運んだ
道中、見る者みな肝を冷やし「なんと多い首であろうか」と驚き、こぞって見物すること、まるで市のようであった。

三条、新山、黒滝に反旗を翻していた照田、金津、黒田の親子を攻め落とし首を取り、すでに国内を統一したと同じであれば、景虎の武威、名声は日増しに高まり、これまで長尾に背いていた諸侯もみな景虎を恐れて首を垂れて旗下に属す。
まさに飛竜の天に上るが勢いであれば、その名声は都にある足利将軍義輝公の耳にも届き、景虎若年ながら越後を統一した軍功は抜群なりと御内書を賜い、その上、白傘袋、毛氈の鞍覆いを許される。
大覚寺の門主もまた御書あり、大舘左衛門左晴光(室町幕府の重臣、足利義晴、義輝に仕える=長尾景虎との交渉役、接待役を仰せつけられる、官位は従四位下)も書札を贈り足利家の旨を通ず、このついで管領上杉兵部大輔憲政も使者をもって懇意を請えば、景虎の面目身に余り、これすべては諸将の力によるところ也と、本庄美作、宇佐美駿河、柿崎和泉、高梨源三郎、本庄孫次郎、新発田尾張、大熊備前、斉藤下野、竹俣三河、只見次郎左衛門、直江山城をはじめ、近年の逆徒退治に軍功ある諸士に各々新恩(新たな領地)を与えた。